第8話 レト
呼び鈴の音で目が覚めた。
時計を見ると八時をちょっと過ぎたところだ。起きる時間としてはそんなに早くはないかもしれないが、今日は休日なので昼頃まで寝てるつもりだった。
ただでさえ俺は朝は決まって機嫌が悪い。それをこうして無理矢理叩き起こされると気分はそれはもう最悪だ。しかも雨が降っている。俺はガキの頃から雨が嫌いだ。最悪の上に更に嫌いなものが重なって、最悪よりもひどい言葉はないかと悩んでしまうくらい最悪の気分だ。
そんな風に俺がなかなか玄関を開けないものだから、呼び鈴は一定の間隔を開けて鳴らし続けられている。最悪の上に最悪な気分が更に最悪になってくる。
ホントどうしてくれようかと思いつつ玄関に向かいドアを思いきり開けると、そこにはマナが立っていた。
まだ夢から醒めていないのかな、と本気で思った。色々な疑問が頭を駆け巡り、何を言ってよいかわからない俺に、マナはあの日と変わらぬ笑顔を向けた。
マナがマグ族の集落に消えていったあの日から十五年経ったはずだ。しかし、銀色の髪、真っ白な肌、グレイの瞳。あの日からマナは何一つ変わっていない。歳も取っているようには見えない。時が止まったままのようだ。やっぱりマグ族は不老なのだろうか。そしてまた、この十五年間胸の奥のところに引っかかっていたものが動き出したようにも感じた。
ただ、あの日と違うこともあった。先ず、マグ族の服を着ていない。流行りの服を着ている。最近の高校生、といった感じだ。しかしまぁ、それはそうだろう。この十五年でほとんど全ての少数民族は「帝国民」となった(なってしまった、と言うべきか)。
大抵の民族は、帝国政府曰く「平和的に」帝国民へと併合されたそうだが、中には抵抗を試みた部族もあったようで(大抵の少数民族には「国家」という概念はなく、他の部族が攻めて来たと思った部族もいたそうだ)、そういう民族は半ば強引に帝国民にさせられたという話も聞く。おそらく武力を使ったのだろう。この動きの中で、やはり少数民族の言語は消えつつあり、実際に消えていった言葉も少なからずある。
マグ族も当然のことながらそういった流れとは無関係でいることはできず、帝国へ併合された。ただ、話に聞いたところによると、割と「平和的に」帝国民へと移行したそうだ。そしてマナは帝国の生活にすっかり順応しているようだ。そこらにいそうな(でもこんな綺麗な子はそうはいない)女の子になったマナを見て、なんだかすごく安心した。しかもマナは、
「おはようございます。朝早くに申し訳ございません」
流暢な帝国の言葉でこう言った。俺はちょっと面食らってしまい、
「おぉ、久しぶりだなぁ……」
と絞り出すのが精一杯だった。あのマナがねぇ、といった気分だ。
「いえ、お会いするのは初めてです」
しかしマナはそう言った。俺のことは忘れたのだろうか。まぁ、それも無理もないかもしれない。会ったのは十五年前の、しかもたった二日だ。ただ、あの日の出来事はマナにとっても大きなことだったはずなので、覚えてないというのはちょっとショックだし、いささか失礼ではないか。
そしてはたと気付いた。俺ももう四十だ。マナの見た目は変わらないかもしれないが、俺は随分歳を取った。頬の肉も弛んだし、少し太った。白髪も若干混じっている。あの時の俺とは様変わりしているから、わからないのかもしれない。
「いやいや、俺がテヲだよ」
「存じております」
マナは相変わらず俺の予想の遥か上を行く。俺を知った上で初めましてとはどういうことだ?
「母がお世話になりました」
一瞬思考停止になった。そして、なるほどな、と冷静になった。話を聞いたら、彼女はマナの娘さんであった。どうりでよく似ているはずだ。いや、むしろ似過ぎだ。一卵性親子といった表現がぴったり来る。そりゃ時が止まったように感じるのも無理はない。
彼女の名前はレトサエヤファーというらしい。発音は帝国風だが、聞き慣れない響きなので、多分マグ族の名前なのだろう。友達からはレトと呼ばれているらしいので、俺もそれに倣うことにした。今年から高校に進学したという。
それにしても、マナと「母親」というのがどうしても結びつかない。どこか永遠の少女といった風情のあったマナが大人になったり、ましてや子供を産んで親になるというイメージが全くできないのだ。しかし事実としてマナは大人にもなったし、親にもなった。マナはどんな母親になったのだろう。聞いてみようとする前に娘が言った。
「昨日、母が亡くなりまして、」
一瞬思考停止になった。
レトの話では老衰だったらしく、特に苦しむこともなかったそうだ。享年は三十歳。なるほどな、と冷静になった。そういえばあの日、食堂野郎はマグ族の寿命は三十年と言っていた。いや、冷静になってなんかいなかった。そう考えて冷静になろうと努めただけだった。頭では理解できても、気持ちがついていかない俺に、更に娘は言った。
「今日の夜、母を食べるのですが、ご一緒いただけないでしょうか」
通された席に着き、食事が運ばれてくるのを待っている。付き合ってる彼女に電話をかけ、以前から話していたレストランに行こうと誘った。急な申し出だったが、幸い彼女の予定がキャンセルになっていて、向こうの方でも俺に連絡しようとしてたらしい。それに、幸い雨も上がったので誘いやすかった。
彼女は純血の帝国民で、付き合い始めてから三年経った。とびきりの美人というわけでもないが、愛嬌はある方だし、俺にはもったいないくらいには可愛い。何より一緒にいて疲れない。年は俺より五つ下だが、それでもお互い若くはないし、そろそろ……という感じではある。ではあるのだが、なかなか踏ん切りがつかない感じだ。
「どうしたの?」
その彼女が言った。
「何が?」
「ずっと黙ってるから」
「あぁ、なんか疲れてるかなぁ」
前菜が運ばれてきた。でもあまり食う気にはなれず、上の方の野菜を箸でかき混ぜる。疲れ気味なのは本当だが、今朝のことを考えていた。頭から離れない、と言った方が正確か。
俺にマナを食って欲しいというのは他ならぬマナの遺言であったという。
マナは生前、俺のことをたまに話していたらしい。俺がいなければお爺さん、つまりマナの父親は死んでいたと言ってたそうだ。
レトは、マグ族が死んだ人間の肉を食うのは、生きている者が死んだ者を体内に取り込むことによって、死んだ者を生き続けさせることができる、という考えがあるから、と説明した。死んだ者の肉を食べられるのは親族、または死んだ者に近しい者、そしてお世話になった人に限られるという。何せ食べる者は、命を繋げる大切な役目を担うわけだから、誰でもいいというわけではない。
マナが父親の肉を食っていた時、群がる浮浪者には決して分け与えず、そして父親の居場所を教えた俺には食わそうとしたのを思い出した。選ばれた者にしか死者の肉を食うことは許されない。マグ族の人食いとはそういうことだ。
ただ、そのことはレトに聞かずとも、随分前に知っていた。あれからマグ族は帝国に併合され、彼らの文化の研究も進んだ。俺もその研究には携わったことがある。
マナの遺言でもあるし、レトとしても生前お世話になった俺には是非に、ということだった。
しかし、俺は同じことを繰り返した。
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