第31話・有希の体調不良

 一周忌といっても、親戚とお寺を呼んで法事を行うだけで、娘達が事前に手伝うことは何もない。特に有希に至ってはまだ独身だ。お供えを用意する必要もなく、ただその日を待つだけだった。


 いつものように週末に雅人のマンションで過ごしていた有希は、その日は朝から胃の調子がすっきりしないなとは思っていた。けれど、冷蔵庫でキンキンに冷えたミネラルウォーターをコップ一杯飲んだら気にならなくなったので、ただの胃もたれだろうと別段気にも留めなかった。

 駅前のショッピングモールで買い物をしたり映画を見た後、雅人の車で自宅まで送ってもらう途中、急に襲ってきた眠気に大きな欠伸を漏らす。


「ちょっと疲れた? お父さんの一周忌は来週だっけ?」

「うん、来週の日曜。別に私は何もすることないけどね」


 法事を前にして忙しいのかと心配してきた雅人に、笑いながら首を振る。必要最低限の親戚しか呼ばないから、本当に何の手伝いもしていない。ただ、最近は何だか身体が本調子でない日が多い。知らない内に疲れが溜まっているのだろうか。


 家の前で車から降りると、車体が見えなくなるまで手を振って見送る。玄関の戸を開くと丁度廊下を横切ろうとしていたピッチと鉢合わせた。


「ただいま、ピーちゃん」

「ナァー」


 顎の毛が僅かに濡れているようなので、浴室で水を飲んでいたのだろう。濡れた足で歩くから廊下には小さな肉球の跡が点々と付けられていた。猫達の為に浴室のドアはいつも開けっ放しにされて、洗面器には水が張ってあることが多い。キッチンの隅には猫用の水皿を常備してはいるが、なぜだか猫達は洗面器の水を好んで飲みたがるのだ。

 浴室と言えば、クロはその出窓がお気に入りの場所らしく、日の差し込む日中はコタツに居なければ必ずと言っていいくらい浴室で寝ていた。


 夕食は済ませて来たので、そのままお風呂に直行すると、有希はシャワーをさっと浴びてからすぐに自室へと向かった。身体が温まったおかげか、少しだけ気分もすっきりした気がした。


 けれど、翌朝にベッドで目が覚めた有希はなぜか倦怠感に襲われていた。身体はだるく、何となくふらつく感じがする。まるで乗り物酔いをしている時のような、ふわふわとして力が入らず、すっきりしない体調。


 ――あれ、どうしたんだろ?


 前日にお酒を飲んでいたら、間違いなく二日酔いを疑った。でも、昨夜どころか、ここしばらくは外でも家でもお酒を飲んだ覚えがない。けれども、目が回りそうな、ふらつく感覚。油断すると貧血を起こしてしまいそうで……。

 仕事で出る予定がなければ、一日中横になっていたかったくらい、絶不調。


 取引先との打ち合わせは小まめに水分補給をしていると特に問題なくこなせたけれど、夕方になってもふらつく感覚はずっと続いていた。


 ――まさか……。


 思い当たる原因はただ一つ。駅前のドラッグストアに立ち寄った後、有希は寄り道もせずに帰宅した。買い物にでも出ているのか、母の姿は無かった。

 トイレに入ると、買って来たばかりの長細い箱を開けて中身を取り出す。これまでも何度か使ったことがあるから、説明書は必要ない。――妊娠検査薬が陽性になるのを見たことは無かったが、今日はなぜかいつもとは違う気がした。


「お父さん……」


 終了線が出るより前に、規定の時間も待たずに現れた青い判定線に、有希は無意識に父のことを呼んでいた。手に握りしめた検査薬は二本の線がクッキリと並んで表示されている。

 しばらくは茫然と検査薬を眺めていたが、意を決してトイレから出ると、有希は雅人にメールを送った。本当はすぐにでも電話で直接話したいけれど、仕事中に余計な心配はかけたくない。


『朝から体調が悪かったので妊娠検査薬を試してみたら、陽性でした』

『分かった、また後で連絡します』


 すぐに返ってきたメールでは雅人が驚いているのか、困っているのかは判別できなかった。ただ、読んでしばらく放置されることは無かったので、別に悪い反応ではないことだけは分かった。これ以上、予定外のことで雅人に負担に思われたくなかった。これまで散々振り回してしまったという自覚はあるから。


 その後30分もしない内に掛かって来た電話の声がとても弾んでいたので、有希はホッと胸を撫で下ろした。大丈夫、間違いなく雅人は喜んでくれている。


「心配だから、明日必ず病院に行って」

「うん。分かった」

「仕事は休めそうもないから、一緒に行ってあげられないけど、一人で大丈夫? 何なら、お母さんに付いて行って貰う?」

「いや、病院くらい一人で行けるし」


 元々から過保護気味だった彼氏が、さらに過保護になってしまった。病院に行ったらすぐに連絡することを約束させられてから電話を切ると、有希は母に報告するタイミングを迷っていた。

 翌週に父の一周忌を迎える今、母の心配事を増やしてしまわないかと不安になる。伝えるにしても病院へ行って確実なことが分かってからで良いかなと考えていると、心配性な彼氏から有希のことを見透かしたようなメールが届く。


『身体のことなんだから、お母さんにはすぐに報告するように。あとで俺からも電話するから』


 行動力のある雅人のことだ、有希がぼーっとしている内に、仕事が終わったからと家に電話してくるだろう。娘からじゃなく、娘の彼氏から先に報告される訳にもいかないと、有希は慌てて部屋を出る。今なら母はキッチンで夕食の支度をしているはずだ。

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