第4話・ガンマナイフ治療

 信一本人には病名の告知をしないことが、妻である貴美子の希望だった。なので、どこから話が漏れて本人の耳に入ってしまうかは分からないので、近しい親戚にも一切伝えることはしなかった。

 それは、一人っ子の信一が姉ちゃんと慕っている大叔母も例外ではなく、本当に家族だけの秘密で、妻と娘以外に知っているのは由依の夫と、有希の彼氏くらいだ。


 主治医である脳神経外科の木下医師も、広瀬信一の診察の際には本当の病名は伏せ、脳腫瘍のことは打撲傷が原因の血塊だと通し、肺ガンにも関わらず内科の受診を勧めることはせずに一人で診察し続けた。


「今の時代、告知しないなんてないですよ。告知しないとまともな治療すらできない」


 信一がCTを撮って貰っている間、待合室にいた妻に外科部長が近付いてきて、腕を組みながら苛立ったように吐き捨てた。医師として最良の治療をしたいと思ったからこその言動なのだろうが、夫の性格を誰よりも知っている妻は黙って俯くしか出来ない。


「この病院でも木下先生くらいですよ。普通は本人にも病名を知らせて、出来る限りのことをしてあげるんです」

「すみません……」


 待合用の長椅子に座ったまま、貴美子は背を丸めた。本人に嘘を付き通しているのだって、決して楽なことじゃない。夫が告知に耐えられるのなら、自分達だって病名を伝えていたはずだ。膝に置いた拳に力を入れて、言い返したい気持ちをぐっと堪えた。



 薬による痛みの緩和。それが信一が唯一できる治療かと思われていたが、3度目の診察の際に木下医師が広瀬夫妻に向かって提案をする。


「比較的新しい治療方法でガンマナイフというのがあるのですが、受けてみませんか?」

「ガンマナイフ、ですか? それは一体……」

「放射線の焦点を絞り込んで腫瘍などへ照射する治療なのですが、この辺りではR市にある病院に設備があり、専門の先生も居られるんです」


 受けるとしたら2泊3日の入院になると思いますがと付け加えながら、二人の前に病院のパンフレットを差し出す。悪性、良性どちらの脳腫瘍でも対応しているというその治療方法は、先進医療の為に保険適応前の医療費は70万円だと説明を受ける。


「ただし、ガンマナイフが効くのは2センチ以内と言われているんですが、広瀬さんの脳にある影で一番大きいのは3センチを超えてるんですよね……」


 それでも試しにやってみる価値はあると思いますよ、と木下は力強く言い切る。照射範囲を腫瘍だけに絞り込むことで周囲の正常な細胞への影響も少なく、通常の放射線治療よりも患者への負担は少ないと力説する。彼が師事している大島医師はガンマナイフ治療の名医だった。


「家に帰って娘に相談してみます」

「分かりました。14時までなら電話に出られると思うので、どうされるか決まったら連絡いただけますか」


 次の診察までになんて悠長なことを言っている余裕は無いと暗に言われ、貴美子はぐっと息を呑んだ。今すぐ決めて今すぐ予約しないといけないくらい、夫には時間が残されていないのだ。


 診察室を出る際、木下医師は貴美子にだけ聞こえるように囁いた。ガンマナイフを受けることで、まともに話が出来る期間を2週間くらいは引き延ばせるかもしれないです、と。

 普通の人にとってはたったの2週間かもしれないが、信一と家族にとってはその2週間はとても貴重なもののように感じられた。一日でも二日でも、今の時間が少しでも長く続く為ならば……。


 部屋で仕事をしていた有希は、病院から帰ったばかりの母親から相談を受けた。初めて聞いた治療方法ではあったが、母自身は受けさせたいと思っているのが伝わってきたので、反対する気はなかった。父との付き合いが一番長い母が納得できるのなら、それで良いと思った。父が居なくなった後、一番寂しく辛い思いをすることになるのは母なのだから。


 何もせずにただ死期を待つだけだと思っていたのに、父でも受けることができる治療方法が突然現れたことは広瀬家にとって、まさに最後の頼みの綱だった。少しでも長く父が父のままでいてくれることを、有希も望まずにはいられなかった。


「入院の時は、お母さんはどうするの? 近くにホテルとかあるの?」

「さぁ、私は別に何とでもするわ。個室なら付き添い用のソファーくらいあるだろうし」


 一日や二日くらい、お風呂に入らなくても冬だし何とでもなるわと気丈に笑う。入院患者である父のことは病院がきちんと面倒見てくれるだろうが、有希は付き添うつもりの母のことの方が心配だった。一人で電車にも乗れないような母が、病院周辺で一人で食事をして、風呂や泊まる場所などを探せるのかと。


 ガンマナイフ治療を受けることに決めると、母はすぐに病院へ連絡をしていた。そして、二つ隣の市にある病院への予約が完了したという電話が掛かってくるまで、それから1時間も経たなかった。通常なら3か月は待たないといけないくらい予約が取りにくいらしいのだが、早急な治療を必要とすると判断されたのだろう、2日後の入院があっさりと決まった。


 バタバタと入院の準備をし、仕事の段取りを組み直した両親を、当日の朝に有希は最寄り駅まで車で送った。並んでエレベーターを昇っていく父と母の後ろ姿を静かに見守りながら、とても寂しく不安な気持ちに駆られる。


 駅に向かう両親の背中は、どちらもとても小さかった。癌に蝕まれて痩せてしまった父は勿論だが、大きな荷物を一人で抱えて父の後ろを付いていく母もまたか細かった。


 親は死ぬまで親だが、最後まで頼っていい訳じゃない。今はもう、自分の方が支える立場にいるのだと、自分自身を奮い立たせる。


 一人きりで家に戻ると、散歩から帰って来たばかりのクロから水が無いと鳴いて怒られ、慌てて飲み水を用意する。飲み終わって満足げに毛繕いする白黒の猫の横を、今度はクロよりも少し小柄なナッチが素通りしていく。


「ナッチ、お帰り」

「ナァー」


 同じように水を飲んだ後、有希の脚に擦り寄ってまとわりつく。抱き抱えるとゴロゴロと喉を鳴らしながら、有希の頬に鉢割れの頭を擦り付ける。

 猫達の為にリビングのコタツを点けて布団を捲りあげると、オレンジに灯った中にはピッチの姿があった。冷えていようがコタツがあれば誰かが必ず入っているのが広瀬家だ。

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