第7話
どうにかデスヘイムから脱出する。ネミアの魔の手から逃れることができた。逃げるのに頭がいっぱいだったので、道中の記憶は曖昧だ。ていうかほとんど覚えていない。
町まで続いている街道までくると、自然と足は立ち止まった。ここまで来れば安全だ。
夜空に浮かんだ月をあおぐ。デスヘイムの空は暗雲でおおわれていたが、ここからならちゃんと月が見える。なんだか正常な世界に戻ってきた気分だ。
ちらりと横目でシルフィアを見た。
立木のように直立していたシルフィアは、全身の力がぬけると、へなへなと膝から崩れてへたりこむ。
「お、おい。大丈夫かよ?」
無理もない。あれだけの激戦を終えて、長距離を走れば疲労も相当なはずだ。ふつうに立っているのだって、きつかっただろう。
「…………だ」
シルフィアは体を小刻みに震わせて、両手からバスタードソードを取り落とした。
「え……いま、何か言ったか?」
「…………やだ」
え? やだ? やだって何が? まさかハリスのことがやだってことか。だとしたらハリスはシルフィアをどつく。グーで。
シルフィアは両手で顔をおおうと、喉の奥からすり切れるような声をしぼり出した。
「もう、やだぁ。こんなのぉ……」
ひっぐ、うぐっ、えっぐ、とえづいてる。顔をおおう両手の隙間からは水滴がこぼれていた。とめどなく流れる涙が大地にしみこんでいく。
「お、おい……」
なんと言葉をかければいいのかわからない。軽くパニックだ。この子どうして急に泣き出しちゃったの? これだとまるでハリスが泣かせたみたいだ。
溜息をついて、また月をあおいだ。しばらくは泣きやみそうにない。このままシルフィアを置いて一人で帰ろうかとも考えたが、それはどうなんだろ? どうなんだろっていうかダメだろ。
なぐさめの言葉もかけることができず、ハリスはヌボーッと突っ立っていた。
シルフィアがどういう心境で泣いたのかわからない。わかりたくもないが。
でも……もうやだ、という言葉が本音であることは、なんとなくわかってしまった。
時間が経つと、どちらからともなく二人は歩きだす。会話のやりとりをするわけでもなく、黙々と街道を歩き続ける。やがて町の灯りが見えてきた。
ラターシャ。ハリスが生活をおくる、辺境の地にある町だ。王都から管理を任された辺境伯が統治を行っている。多くの住民が暮らしていて、ハリスやシルフィアのような冒険者もたくさんいる。
「その、さっきのことだけど……」
町の南門が近づいてくると、シルフィアはもじもじと身をよじって肩をすぼめた。月光に照らされた横顔はほんのりと赤い。両目はまだ腫れている。
「さっきのって……えっと、どれだ?」
「その……わたしが、泣いちゃったの……」
あぁそうね、泣いちゃったのね。いや、わかってたけどね。でもあえて知らないふりをしたのね。だって思ったのと違ってたら気まずいもんね。違っていなくてもいま十分気まずいけどね。どうしてくれんの、この空気?
「あ、あぁ……それか。それが、どうした?」
「えと、他の人たちには、内緒にしてもらいたくて……」
「お、おう」
頷いておく。頷かなきゃいけない流れになってる。
シルフィアは将来を嘱望されている冒険者だ。そんな女の子の泣き顔を間近で見られただけでもラッキーだ。これから先の人生で、こんなラッキーなことはない。シルフィアの泣き顔はひっそりと胸のなかにしまっておこう。宿屋に戻って一人になったら、思い返してニヤニヤしよう。うわっ、気持ち悪っ!
「あ……」
シルフィアが間の抜けた声をもらした。町の南門のところに四人分の人影がある。セシリーにカイト、キヨミにエヴァンス。シルフィアのパーティの仲間たちだ。
シルフィアはうれしさのあまり出迎えてくれた仲間たちのもとに走り出す……なんてことはしなかった。シルフィアはどうすればいいのか困っている。なぜかちらちらとハリスの顔を見てくる。いや、こっちを見られてもね。
「あっ……シル先輩っ!」
キヨミが気づいた。子犬のように駆けてくる。もう意識が戻ったんだな。
「シル先輩、本当にシル先輩なんですね! よかったです! シル先輩が無事でいてくれて!」
一気にまくし立ててくるとキヨミはぽろぽろと大粒の涙をこぼす。シルフィアが生きていたことに、心の底からよろこんでいた。
「怪我してるじゃないですか! 待っててください。すぐに治します」
キヨミがキュアをかけると、シルフィアの体中についていた傷が癒えていく。シルフィアは何か言おうと唇を動かそうとしていたが、懸命なキヨミを見ていたらどうでもよくなったのか、表情をやわらげた。
キヨミに続くように、他の三人も近づいてくる。
「かぁーっ、やっぱ生きてやがったかこいつめ! 信じてたぜ! さぁシルフィア、俺の胸にとびこんでこい!」
「えっと、それは遠慮しておくよ」
「そうです、カイト先輩。汚らわしい手でシル先輩に触れないでください」
「汚らわしくねぇよ! きれいだよ! 清潔感の塊だよ! 試しに触ってみろよ、ほらあっ!」
ツバを飛ばしながら騒ぐと、なぜかカイトは腰を突き出してくる。キモ、と呟いてキヨミは侮蔑の眼差しを向けていた。
シルフィアは曖昧に微笑むと、エヴァンスに問いかける。
「どうしてみんな、門のところに?」
「カイトとキヨミが、おまえの帰りを待つと言って聞かなかったからな。正直おれは、おまえが生きて帰ってくるとは思っていなかった。これまでシルフィアには何度も驚かされてきたが、今夜のはとりわけ驚かされた」
眼鏡のブリッジを中指で押し上げると、エヴァンスは口の端をまげる。
そっか、とシルフィアは納得する。そして犠牲になれと命じた張本人、セシリーと視線をあわせる。
なごやかだった空気が、一転して重たいものに変わった。
「シルフィア、わたしを責めたいのなら、好きにしていいわよ。どんなことを言われてもしかたないもの。わたしはそれだけのことをやった。シルフィアがパーティを抜けたいのなら、とめない。でも……」
息を吸いこむとセシリーの瞳に強い光がやどる。パーティの命運を預かるリーダーとしての覚悟だ。
「わたしは、間違った判断を下したつもりはない。あの場は、あぁしなければ切り抜けられなかった」
パーティを存続させるためにやったことだと、セシリーは主張する。しかしそれはセシリーの正しさであって、人柱にされたシルフィアからすればふざけんなって話だ。ハリスだったらそう思う。
シルフィアはぎゅっと拳を握りしめる。まっすぐ見つめてくるセシリーの視線に耐えかねたように、顔をうつむかせた。
「セシリーを責めようだなんて、そんなことは考えてないよ。パーティを抜けることもしない。セシリーの判断は正しかった。じゃないと、パーティは全滅していたから」
シルフィアの答えを聞くなり、誰かが息をついた。セシリーも硬かった表情をゆるませて、相好をほころばせる。
「無事でよかったわ、シルフィア」
セシリーは親しみをこめた手で、シルフィアの肩を叩いた。うん、とシルフィアは首肯する。
これでぜんぶ元どおり……なんて都合のいい話はない。ぎこちなさというかわだかまりというか、モヤッとしたものは依然として漂っている。特にシルフィアのは色が濃い。今夜と同じような場面が再び訪れれば、そのときはまたシルフィアが犠牲者に選ばれる。本人からすればたまったもんじゃない。
もっとも、パーティのことはパーティ内の連中の問題だ。部外者であるハリスが口出しするようなことではない。
というかあれだな。さっきから誰もハリスの存在について触れない。もしかして盗賊だから気配遮断スキルが高すぎるのかな? 気配を消してるつもりなんてないんだけどな。そういえば前に武器屋に入ったときも、ぜんぜん店主に気づいてもらえなかった。ようやく気づいたかと思えばその店主、「うおっ、驚かせんなよ、幽霊かと思ったじゃねぇか」なんてほざきやがった。もう二度とあの店には行かねぇ。
「ところでシル先輩。さっきからその後ろに立っている死んだ目をした男の人は誰なんですか? ずいぶん陰気臭いですね」
おっ、やっと認識してもらえたようだ。でもさ、キヨミン。死んだ目とか、陰気臭いとか、失礼だよね。一応は初対面なんだから。こうして面と向かい合うのは初めてなんだからさ、もっと礼儀正しくいこうよ。
「あぁ、えっと彼は…………彼は…………きみ、だれ?」
あんれれ? シルフィアちゃんったらいつの間に記憶喪失になったの? じゃない。そうだった。まだきちんと名乗ってなかった。
「……ハリスだ」
ぶっきらぼうに、ぼそぼそと自己紹介をした。好印象ではないだろう。
「えっとわたしは彼に……ハリスに助けてもらって、どうにか窮地を脱したんだよ」
「こんな根暗そうな人がシル先輩を……? というより、こんな人レイドに参加してましたっけ?」
参加はしていない。こっそりと尾行していただけだ。でも真実を口にしたら面倒なことになるので、わざわざ教えたりはしない。あと、根暗かどうかは関係ないだろ。
「……敵がシルフィアに気をとられてたから、それを利用してうまくやったんだよ」
ハリスは事の経緯をかいつまんで説明する。
「なるほどな、敵の意表を突いた作戦か。俺もそれは考えたぜ。まぁ、やろうと思えばできたが、あえてやらなかった」
「あえてやらなかった意味がわかりません。都合のいいウソをつかないでください」
「ウ、ウソじゃねぇよ! ウ、ウ、ウ、ウソなんて証拠がどこにあるんだよっ!」
もうその動転っぷりが、ウソだと自白しているようなものだ。
「根暗さんの話をまとめると、シル先輩のおかげで敵の注意を引くことができて、シル先輩がいてくれたから窮地を脱出できた。つまり全てがシル先輩のおかげ。シル先輩こそ神ってことですよね?」
ですよねって訊かれてもね、それをどう肯定すればいいのかわからないよ、キヨミン。てかキヨミの話にはハリスが一切登場しなかった。どんだけシルフィアが好きなんだよ。
「なんにしても、お礼を言っておかないとね。うちのエースを助けてくれてありがとう」
「俺からも、礼を言わせてもらおう」
セシリーとエヴァンスが感謝の言葉を口にする。そういった誠意は言葉じゃなくて物で示してほしい。具体的には金とかで。
「わたしもまだ、ちゃんとお礼を言ってなかったね。助けてくれて、本当にありがとう。ハリスがいてくれなかったら、わたしは駄目だったよ」
シルフィアの浮かべる華やかな笑みに、ついつい見惚れてしまう。自分の存在を認めてもらえたみたいで、不覚にも胸の鼓動が早まる。
「べつに、礼を言われるほどのことはしてねぇよ」
無愛想に切り返すと、シルフィアは苦笑した。
「んだよハリス。素直じゃねぇな。もっと素直になれよ、俺のようにオープンになれよ」
「カイト先輩ほどオープンになったら問題ありまくりですが、ハリスさんはハリスさんで、かなり面倒な人みたいですね」
キヨミン、よくわかってる。ハリスも自分みたいな奴がいたら、なにこいつ面倒くせぇ、とウザくてしょうがない。
さて、シルフィアを無事に送り届けたことだし、そろそろおいとましよう。パーティのなかに一人だけ無関係な人間が混じっているこの異物感は息苦しくてたまらない。
その旨を伝えようと口を開きかけた。
「おっ、シルフィア。生きて帰ってきたか」
自分のものではない声が重ねられる。完全に話を切り出すタイミングを逸した。誰だよ、ちくしょうが。
街路の奥から金髪碧眼の中年男性が堂々とした足取りでこっちに歩いてくる。勇猛な顔立ちで、目尻や口元には年齢を感じさせる皺が刻まれている。全身からは精悍なオーラが漂っていた。
ハリスは一時だけ呼吸するのを忘れる。体の内側から高揚感がわいてきた。
エンダーだ。町で最も有名な冒険者。『烈風の勇者』の称号を持つ、正真正銘の勇者だ。
エンダーは二十年前、人々から恐れられる魔王ギルバドスを仲間の冒険者たちと共に打倒して勇者になった。冒険者なら誰もがエンダーの伝説を知っている。そしてエンダーに憧れる。ハリスもその一人だ。憧れの存在を前にして、軽く目まいを覚える。
現在エンダーはほぼ引退しており、滅多なことがないかぎりダンジョンにはもぐらない。エンダーが動くとすれば、それはよっぽどの事態のときだけだ。
前触れもなく登場したエンダーに、みんな驚いている。そのなかで特に戸惑いを見せているのはシルフィアだった。
「お、お父さん……どうしてここに?」
そう、お父さん。エンダー・アレインはシルフィアの父親だ。シルフィアは伝説の勇者の娘に当たる。それゆえに誰もがシルフィアに期待する。期待せずにはいられない。だって伝説の勇者の娘だから。冒険者としての素質が受け継がれているに違いないと、誰もが信じて疑わない。
「おまえらの他にも逃げてきた連中がいただろ? そいつらから大まかな事情は聞いた。ネミアのことも、シルフィアが時間を稼いだこともな」
それで門までやってきたのか。剣や鎧を装備していないことから、さすがに単身でデスヘイムに乗り込もうとか、そんな無謀な考えは起こさなかったようだ。
にしてもネミアの名前を口にしたとき、ちょっとだけ語気が強まったが……知っているのだろうか?
「大量のアンデッドに襲われても殺されずに戻ってきたか。それでこそ俺の娘だ。ばっちり俺のしぶとさを受け継いでるな。もっとも、俺が若い頃はアンデッドなんかよりも強力な魔物に包囲されたがな」
カッカッカッカッと豪快に笑う。娘が死にかけたというのに、のんきというか、無神経というか、まともな反応じゃない。
「ところでセシリー。おまえ、俺の娘を使って時間稼ぎをしたそうだな」
「はい……シルフィアが適任だと思いましたから」
偽ることなくセシリーは肯定する。
これは……まずい。自分の娘が人柱にされたんだ。ブチキレる。そりゃそうだろう。当たり前だ。
エンダーの怒りが爆発する前に、ハリスはさっさとこの場から撤退しようとする。
「……そうか。やっぱおまえは優秀なリーダーだな。その判断は間違っちゃいねぇよ。パーティを生かすためなら、誰だろうと使うべきだ。そこに私情を挟んじゃいけねぇ。たとえ俺の娘でもな」
てっきりブチキレるかと思っていたが、エンダーはセシリーを非難するどころか称賛してきた。親としてではなく、一人の冒険者として言葉を送ってくる。
シュンとあからさまにシルフィアの顔が暗くなる。心配してほしかったんだろう。娘なんだから当然だ。いまシルフィアが求めているのは冒険者としてのエンダーではなく、父親としてのエンダーだ。
「ん? なんだシルフィア? なにか言いたそうな顔だな? セシリーの判断が誤りだと思ってんのか?」
「そんなことはないけど……」
けど。けど、なんだ? 釈然としない。セシリーの判断も、それを当たり前のように受け入れるエンダーも、シルフィアからすれば不満でしかない。
「つーか、あれだな。なんか空気が悪いな、おまえら。ま、そんなことがあったんならしゃあないか。俺も若い頃は似たようなことで仲間と揉めたからな。ひどい時は殺し合いになりかけた」
仲間同士で殺し合いはまずいだろ。やっぱ伝説の勇者ともなると、やることが常軌を逸している。ハリスだったらパーティの仲間と殺し合いに発展することはまずありえない。だって、誰ともパーティ組めないからね!
ふと、ハリスはエンダーと目があってしまう。ドキリとした。
「ところでそこの影の薄いガキは誰だ? 見かけない顔だな?」
「え、えっと彼は……」
シルフィアは先ほどセシリー達に話したのと同じ説明をエンダーにもする。影が薄いというのは余計だ。相手が憧れの勇者であろうと、ハリスは嫌なことを言った奴を忘れない。忘れずに、言われたことをときどき思い出しては傷つく。ろくなもんじゃない。
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