第7話 月と犬のいない男
流石に回復には時間がかかった。
俺が目覚めると、廃墟にはすでに夕闇が迫っていた。
【宇宙服の男】もミニスカの女も消えていた。
犬もいない。
不思議なことに、あの紙吹雪のあとさえなかった。
だが、交戦があったのは現実だった。
廃墟街の真ん中にぽっかりと空き地ができていた。
瓦礫や、朽ちた廃墟などが、円形状に消失している。借り物の自転車がビルに突き刺さっていた。引っこ抜いてみたが、手の中でバラバラに分解してしまう。さらにビルからでかい瓦礫が落ちて来て、その残骸をプレスしてトドメを刺した。埃が舞う。まるで爆撃のあとみたいだ。
俺は習慣で背広の埃をはたき落とす。
が、無駄もいいところだ。もう服は原形を留めていない。
「新しいのを買わなくちゃな。また給料前借りするか」
呟いて、俺はもう一度だけ犬を探す。
【宇宙服の男】が攫って行ったのだろう。あの感じじゃまあ、すぐに殺される事はなさそうだが。
何にしろ、今日はもう無理だ。探すにしても明日だ。
「散歩でもしながら帰るか」
昇りはじめた月の方角へ、俺はカポカポ歩きだす。
革靴を片っぽなくしてしまったのだ。
繁華街を歩いていると、事務のクガネさんに出くわす。
クールな彼女も俺の姿には驚いたようだった。
「――どうしたんですか」
「退勤時間かい?」
「ええ。いえ、それより怪我は――」
「いや平気」
「平気って――」
「じゃあ、行くよ。俺は夜の散歩しなきゃならないんでな。日課なんだ、ずっと昔からの」
「散歩ってそんな状態で――」
「こんな状態だから散歩なのさ。また明日、職場でな」
返事は聞かず、俺は歩きだす。
やがて口笛を吹き始める。
今夜は満月だ。
俺の影はときおり獣の姿をとる。
繁華街を抜け、強盗の潜む路地を抜け、河川敷を歩いた。
降りそそぐ月光が痛みを洗い流していく。このぶんなら夜明けまでに復調できそうだ。
「もうちょっと星が綺麗に見えたらなあ。むかし見たみたいにさあ」
もちろん誰も応えない。
かつては、もっと綺麗な月光の下を
やがて水辺の道で、俺は足を止める。蛍が舞っている。
「そろそろ出てこいよ。何の用だ?」
郊外に出た辺りから、俺は追跡者の気配に気づいていたのだ。
「メイツェン・ミステリアス・ボーイズでも、その辺のチンピラでもなさそうだが」
返事はない。
「それとも宇宙から来た侵略者かあ?」
いや【宇宙服の男】でもない。
ヤツの一種神々しい圧力とは別の、それは原始的な威圧感だった。
そして、やはり応えない。
しかし、いる。
草むらのなかか、土手の影の中か、水中って事は流石にないだろうが、近くに確実にいる。視線とか気配とかそういうレベルではない。ほとんど物理的な熱に近い。恐ろしく獰猛な何かがすぐ近くに潜んでいる。
俺は待った。
というより動いたらその隙を突かれそうで動けなかったのだ。
向こうも仕掛けてこない。
獣臭と息づかいだけが強くなっていった。
月がわずかに傾いた。
「用がないんなら俺は行くよ」
言い捨てて歩きだした瞬間、熱を感じた。
圧倒的な質量と熱の塊。
腕で受ける。
背骨まで痺れる衝撃。
とっさに地面を転がった。お陰で二の太刀を躱せたのだが、避けたというよりは撥ね飛ばされたのに近い。
それでも、転がるのが遅かったら、腕の一本は持って行かれたんじゃないだろうか。それほどの一撃。禿げるかと思うほどの風圧。
「ヘイ。ぜんぜん効いてないぜ。バーゲンセールのおばはんの方がもっとゴリラだったぜ」
まあ、ここは強がっておかないとな。弱みを見せた相手に獣は容赦しない。
だが、反応はなかった。
そいつはあの一撃を最後に姿を消してしまう。
ついてきた時は物音一つ立てなかった癖に、去り際は派手に草むらを鳴らした。まるで急に逃げ出したみたいな反応だった。俺は何もしてないから、俺にビビったんじゃないだろう。だとしたら自分の行い自体に怯えたのかもしれない。
たっぷり五分は待ったが、けっきょく【獣】は戻ってこなかった。
痺れた腕を確認する。
稲妻の様な跡。ガードの衝撃で毛細血管が潰されたのだ。受けた部分はもとより、肩口から胸にかけてまで内出血が生じていた。
すごいヤツもいるものだ。もしかしたら同類さんかもな、という考えが頭をよぎる。いや考えすぎか。
俺は口笛を再開する。
けっきょくどんなヤツか姿は見てやれなかったが、まあいい。この街ではなんでもありだ。
例えば、朝、借金取りを追い払って、昼にはメイツェン・ミステリアス・ボーイズに追われ、宇宙人を発見したと思ったら、空気爆弾で吹き飛ばされて、犬を奪われたり、その帰り道で【獣】に毛細血管ぶち切られる事だって、まあ、あるのだろう。
だが、犬には悪いことしたな。
そう思いながら俺は散歩を続ける。
この街が危険だろうが、犬がどうなろうが、俺は散歩を止めないし、口笛まで吹いている。俺はきっとそういうヤツなのだ。
こんな街でも、濁った星は見えるし、竜胆の花はかぐわしい。
望みを言えばキリがないが、とりあえず俺はそれで満足できてしまうのだ。きっと。ここに犬がいなくても。
△△△
「おはようさん」
「はい、おはようさん。ホントに早えなどうした」
「遅刻しねえで来たのいつぶりだ?」
「ソーマ金返せ」
「すみーません」
「巫山戯てんの?」
「あなた――」
翌日、何事もなく出社した俺を見て、クガネさんは目を丸くした。なにせ痣どころか擦り傷一つない姿で現れたのだから当然だろう。
「夜のサンポ健康法だ」
格好を付けてそう言ったとき、編集長兼、社長のレイモンドに呼ばれる。
「おいソーマ」
「明日にしてくれ。俺は今日忙しい」
「お前に客が来てる」
「俺に? いや、すみーませんけどぉ、これからヤボ用が――」
「いちびってねぇで、いいから来い」
「いや犬がね」
「うるせえ」
「痛い痛い」
嫌な予感はした。
俺も散歩のときには、気分で「散歩ができれば厄介事もまあOK」みたいなことを思ったりもしたが、アレは半分嘘だ。何事にも限度はある。
考えてみれば、この朝がその限度ぎりぎりの所だった。この時点で上手いこと逃げだしてれば、俺はぎりぎり許容できる範囲の日常に踏みとどまれたかもしれない。
いや、無理か。
なにせ俺は知らず知らずのうちに、あの【Q】とも【ビッケ】とも遭遇してしまっているし、後になって考えてみれば明らかなのだが、俺の性格上、いつかは【ニルギリア・BB】との衝突も避けられなかったに違いない。そしてこの時は【宇宙服の男】ともぶつかる気でいた。
そして何より【タニモト】。
これから起こる出来事へ、俺を直接巻きこむことになるあの野郎は、この時点ですでに、隣の応接室へスタンバっていやがったのだ。
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