第6話 犬と宇宙服




 白い月と、太陽を背に、そいつは空に浮かんでいた。

犬の衛星を漂わせ、まるで重力がないみたいに。


 姿ははっきり見定められない。

 縫い目のほどきかけた白いシーツ。それを十重二十重に纏ったような姿だった。全身くまなく、衣でおおっているから、ほとんど雲の切れ端にしか見えない。

 ただわずかに陽に透けて、シルエットになった体つきが見て取れる。おそらく男。ただ、影だけで美しい男だと分かる。

 顔の部分だけが、黒い。

 それも海底の氷を重ねたような深い黒さだった。

 仮面だろうか。しかし凹凸ひとつないつるつるの面だった。


 雲を纏い、犬の衛星を従え、空に君臨する美しいもの。

 神々しいと人は言うだろう。

 だが俺は違う。

 説明しておくと、俺はこの時点では、こいつが【Q】だと知らなかったのだ。

 俺がまず思ったのはこうだ。


動物誘拐事件キャトルミューティレイションだー!」

 で、次に思ったのがこれ。

「こいつ絶対宇宙人だぜ! だって飛んでるもの。宇宙服着てるしよォ!」

 この言葉である。

 俺には顔にバイザーのある雲スーツが宇宙服にしか見えなかった。だって飛んでるもの。無重力だもの。犬はくるくる回ってるし。

「ホントだスゲエ!」

 廃墟から這い出してきて、メイツェン・ミステリアス・ボーイズも叫ぶ。

 俺も手加減はしたが、こいつらよく生きてるな。

 しかし、その時の俺はそれどころではない。

「オイ、お前ら休戦だ。休戦。あの【宇宙服の男】捕まえようぜ!」

 メイツェン・ミステリアス・ボーイズも空を指さして叫び始める。

「宇宙服。あっ本当だ!」

夢禹ムウで読んだヤツ!」

 え? お前らも夢禹民?

 なんだよ良いやつらじゃん。

 俺らは協力して【宇宙服の男】を呼んだり小石を投げたりした。

「すみーませんけどォ! 降りてきてもらえますかァ!」

「名前とオウチの場所言えますかー!」

「お前ドコ星? ドコ星から来ましたか!」

「取材させてくれぇええええ!」

「ピラミッドですけどォ!」

 やがてメイツェン・ミステリアス・ボーイズの一人が閃いた。

 ヤツらはすぐさま組み体操のように積み重なって、ピラミッドを形成する。

 これを踏み台に【宇宙服の男】を捕まえようというのだ。

「登って下さい」

「俺らに構わず」

「メイツェン・ミステリアス・ボーイズの花言葉は『捕獲』ですけど?」

「夢を掴んでほしいですけど?」

「頼りになるぜメイツェン・ミステリアス・ボーイズ!」

 共通の目的を前に、俺らの心が一つになった。

 なんて、和気あいあいとしていられたのはここまでだった。

 動きが止まった。俺ら全員の。

 体が押される、とまず感じた。

 それから次に、動かない、と気づく。

 メイツェン・ミステリアス・ボーイズもピラミッド状態のまま固定されている。

「あれあれあれえ~?」

 みたいな事を言っているのが、押しつぶされたカエルの声に代わっていく。

「きゅううううううう」

 俺も同様だった。

 何が起こっているのか分からない。

 恐ろしい圧迫感。

 割れない風船で一杯の小部屋に閉じこめられたらこんな感じになるんじゃないか。

 そしてその風船はどんどん膨らんでいくのだ。

 圧力はどんどん増していく。


 金泉獣果きんせんじゅうかで吹っ飛ばしたいが、そのための踏みこむ動作すらできない。

 潰されながら体が宙に浮いていく。

 いったいなんでこんな事になっているのか、わけが分からない。あの空のヤツやっているのか?

「おっおっおっおっ」

「おっぱっぱっ」

 メイツェン・ミステリアス・ボーイズが血を吐き始める。

 が、その声は水中にいるように、遠く、くぐもって聞こえる。ヤツらの流す血が空中に固定されている。やはり見えない空気の塊みたいなものが俺らを押しつぶしているのだ。

 瓦礫や、立木の圧壊する音。

 肺の中身が押し出される。

 ここは深海か。

 俺たちは鯨も圧死するような海底にいるのだ。

 これは、マジで死ぬ。


 その時、絶対的圧力のなかに声を聞いた。

「わんにゃんに詫びたまえ」

 【宇宙服の男】の声だ。鼓膜まで押しつぶされた状態にもかかわらず、その声だけはちゃんと聞こえた。

 こんな状況で思うことではないが、俺はこんな美しい男の声を聞いたことがないと思った。

 俺は眼球をどうにか動かして、声の方を見上げる。

 歪んだ大気の向こうに【宇宙服の男】とそいつに抱き上げられた犬の姿が見えた。


 俺のなかに屈辱感が広がっていく。

 ぺちゃんこになった声帯を押し広げ、血と一緒に一言ずつ言葉を吐き出す。

「連れて行こうってんだな? 力尽くで奪おうって事なんだな? 俺から犬を奪うのか」

 盗んでいくのならいい。騙すのもいい。だが、力で奪うのは、俺への挑戦だ。

 血の味が俺の獣性を高めてくれる。

 俺は全力をこめて腕を持ち上げていく。

 ゆっくりとなら、体勢を変えられると学んだのだ。

 もちろん、バーベル上げ以上の力が必要だが。

 ぼわん。ぼん。と圧力に屈したメイツェン・ミステリアス・ボーイズの破裂する音。

 ピラミッドはもう真っ赤だ。

 俺は、血管ぶち切れる思いで、腕を掲げることに成功する。

 さらに背筋に力をこめ、体全体を弓なりに反らしていく。

 これは、溜めだ。俺の体は弓。居合い切りの鞘。くしゃみする直前のキングゴリラ。

「てめえ侵略者エイリアンって事でいいんだよなぁ!」

 力を一気に開放する。

 すなわち、全力で手刀を振り下ろした。

 言っておくと、俺の爪はめっぽう鋭い。


 一瞬の開放感。


 上空からの美しい声。さっきよりもっとクリアに、冴え冴えと聞こえた。まるで台風が去った後の朝みたいに。

「ほう――斬るとはね」

 そう。確かに斬った。

 が、その行動が正解だったかどうか。

 俺の爪が、周囲の圧力を斬り裂いて、走る。それらが、実際に風船の形をした空気の塊であったことが、感覚で分かった。

 俺は直ちに後悔する。

 穴の開いた風船は破裂するのだ。


 直後、俺の金泉獣果きんせんじゅうかをはるかに超える衝撃に襲われる。

 人間を押しつぶすような圧力が、一瞬に開放されたのだからたまらない。俺はその爆発をもろに喰らったわけだ。玩具の風船にだってビビって近寄らないタイプなのによ。

 痛覚を知らせる電気信号より速く、俺の体は吹っ飛んだ、と思う。よく憶えてない。

 廃墟の壁を何枚もぶち抜き、ビル一つを貫通し、天井のない廃墟の真ん中で止まった、と思う。

 なぜか、周囲に光り輝く紙吹雪が舞っていたのを憶えている。

 一枚手に取って観察したいが、指一本動かせない。かすむ目で辛うじて、紙切れに古代文字のようなものが刻まれているのを判別した。

 そんな行為に何ら意味はなかったのだが。


 意識を失う前に、ビルに開いた穴をくぐって近づいてくる、一人の女を見た。

 女は俺に跨がるようにして見下ろす。

 そして、空の方を向いてこう言った。

「先生、こいつまだ生きてますよ。しぶとい~」

 空からの返事はなかった。

 女はなぜか看護服のコスプレをしている。

 しかもミニスカート。

 そのせいで俺の最後の言葉は酷く間抜けなものになってしまう。

「ミ、ミニスカ」

 その言葉を残して、俺の意識は暗闇へ落ちていった。


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