これは大事な宝物なので。

櫻葉月咲

とある朝の小さな幸せ

 柔らかい日差しが、ベンチに座る二人の子供の頭を優しく照らしている。

七香ななかの目の前に差し出されたのは、自分の顔よりもやや大きなくまのぬいぐるみだ。


 それを片手で無造作に差し出した相手──力翔りきとは瞳を伏せ、ほんのりと頬を染めていた。


『え、っと……』


 力翔の表情は勿論だが、誕生日でもないのに何かをプレゼントされた事への困惑から、七香はきゅっと手の平に力を込める。


『あ〜……! これ、あげる!』


 半ばやけくそに言うと、ぬいぐるみを強引に手渡された。

 その拍子に、ちょんと手が触れる。


『じ、じゃあな! ちゃんと渡したから!』

『力翔……!?』


 呼び止めようとする七香の声よりも早く、力翔は逃げるようにベンチから立ち上がると駆け出した。

 七香の小さな身体にぎりぎり収まる、ほんの少し大きなくまのぬいぐるみの首には、小指ほどの赤い宝石がキラキラと輝いている。


 どうして誕生日でもないのに、ぬいぐるみをくれたのか。

 どうして顔を合わせてくれなかったのか。

 一人取り残された七香は、しばらくベンチに座ってぼうっと考えを巡らせた。


 七香の腕の中で、丸いボタンで模した二つの黒い瞳が、段々小さくなっていく力翔の背中をじっと見つめていた。



 ◆◆◆



 チュンチュン、チチ……。

 朝が来たことを告げる鳥たちの声で、七香はのそのそとベッドから起き上がった。


「……なんであんな夢を見たんだろう」


 未だにぼんやりとする頭で、夢の内容を反芻はんすうする。

 十五年前、七香が小学校へ上がる前の事だ。

 柔らかく頬を染め、勇気を振り絞って手渡してくれた男の子──力翔の表情を、夢を見ずとも鮮明に覚えている。


 ベッドサイドには、その時力翔から貰ったくまのぬいぐるみがちょこんと置かれてる。

 七香はそっとぬいぐるみの頭を撫で、続いて首に掛けられた小さな赤い宝石──ガーネットにそっと触れた。


 窓から射し込む太陽の光で、赤いそれがいっそう輝くさまは、七香の疑問を一瞬のうちに払拭してくれる。

 指先で摘み、角度を変えてしばらく見入っていると、コンコンと部屋のドアが控えめに鳴った。


「七香〜? 起きてるか」

「どうしたの」


 七香の応答から一拍ほどの沈黙の後、ゆっくりとドアが開く。


「いや、起きてるんなら朝飯食べに来いよ。もう出来上がってるんだぞ」


 やや呆れた声音で力翔が姿を見せた。

 キリリとした精悍せいかんな面立ちの中に、ほんの少し幼い表情が見え隠れしている。

 けれど声音や表情とは裏腹に、限りなく優しい瞳がじっと七香を見つめていた。


「ごめんって。でも休みくらい寝かせてよ」


 今日は仕事もなく、昼までゆっくりと眠れると思っていたのにこれだ。


「休みだからってなぁ……。昨日お前が出掛けたいって言ったから、こっちは準備してるのに」


 力翔はドアにもたれかかり、腕を組む。


「あー……あったわね、そんな事」


 昨日の夜、七香が『せっかくお互い休みだからドライブに行きたい』と冗談半分で言ったのだ。

 それを律儀に実行しようとしているのだから、真面目な男だなと思う。


(でもこんなに朝早く起こさなくてもいいじゃない)


 目覚まし時計は、七時になろうかという時間だ。これでは平日と変わらない。


「言い出しっぺが忘れるなよ」


 ますます力翔が呆れた声音で言う。

 七香を見つめて逸らさない力翔の視線から逃れたくて、もう少し寝かせてほしくて、起こしていた身体をもう一度ベッドへ沈める。

 そうして力翔から表情が見えないように、壁際に顔を向けた。


「はぁ。……仕方ないな」


 小さく溜め息を吐くと、力翔が部屋へ足を踏み入れたのがわかった。

 そうしておもむろにベッド脇へ膝を付く。


「七香ちゃ〜ん! 早く起きないと食べちゃうぞ!」


 軽い重みが伝わったと同時に、いやに高い声が部屋全体に響く。


「ふっ」

 思わず吹き出しそうになったところを、気力で堪える。

 それは七香の腹から上にかけ、てってっとリズム良く移動していく。


 こしょこしょと耳付近を通り、頭をわしゃわしゃさせて遊ぶ物がなんなのか七香には分かっていた。

 こうされるのは、七香が休日の恒例行事となっているからだ。


「ほらほらー、今日は七香ちゃんのだぁい好きなサンドイッチなんだって〜。コーヒーにいくらでもミルク入れていいし、砂糖も入れていいって力翔くんが言ってるよ〜?」


 ねぇねぇと小さな手が、小刻みに震える七香の肩をちょんと叩く。


「ちょ、何。ふふ、……待って、一回待って! も、あはは、笑ってるから!」


 毎回上達するきざしのない力翔の裏声に加え、そこらの女性よりも高い声音に、とうとう七香は吹き出した。

 振り向いた拍子に、くまのぬいぐるみと視線がかち合う。


 力翔の少し節張った手にはぬいぐるみが握られており、それで七香を起こそうとしたらしい。

 そうして力翔とも瞳がぶつかると、ぬいぐるみを持っていない方の手で、未だ笑いで震える七香の肩に触れた。


「おはよ、七香」


 極上の微笑みを浮かべ、起き上がるようにうながすさまは、自分がプリンセスか何かになったかのような心地にさせる。


「ふふ、おはよう。力翔」


 力翔の手を借り、七香は起き上がった。

 休みと言えど、こうして朝から大好きな人とじゃれ合うのは楽しい。

 それと同時に、心の中が甘い気持ちで満たされていく。


(私も大人になったものよね)


 当たり前だが、小さな頃は何も知らなかった。

 つい数年前に力翔から貰ったぬいぐるみ──それに掛けられていた宝石の意味を、力翔の想いを知ってから、七香は変わったのだ。

 七香はぽすりと力翔の胸元へ頭を預けた。


「おい、また……」

「黙って」


 力翔が言おうとしている言葉をさえぎり、七香は目を閉じる。

 遮られた事に納得していないものの、七香の言い付け通りに力翔は口をつぐむ。

 規則正しい心音が、ゆっくりとした息遣いが、七香の耳に心地よく伝わっていく。


 しばらくそのままでいると、控えめながら肩に手を回され、やんわりと抱き寄せられた。

 それに応えるように、七香も力翔の首に両手を回す。


「──力翔」

「ん?」


 七香がぽそりと呟くように名前を呼ぶと、力翔は必ず応えてくれる。

 そんな力翔が大好きだった。

 あの日から十五年が経った今、改めて再確認する。


「私を選んでくれてありがとう」


 胸元から離れ、じっと力翔の瞳を見つめて微笑む。

 ふ、と力翔がなんとも言えないという笑みを浮かべる。


「なんだよ、それ。俺が言うセリフだろ」


 破顔した力翔の顔は、幼い頃の事を思い起こさせる。そして、それ以上に七香の胸には愛しい想いがいっぱいに広がった。


「言いたくなったんだもの。それとも私じゃない方が良かった?」


 こてりと首を傾げ、問い掛ける。

 きっと今の自分は意地悪い笑みをたたえているだろう。けれど、答えは分かりきっていた。


「いや、お前で……俺が好きになった人が、七香でよかった。──愛してる」


 頬に力翔の両手が触れ、ほんの少し上向かされる。

 甘く優しい声が、唇が、七香をゆっくりと包み込んだ。

 傍に置かれたぬいぐるみの首に掛けられた、赤い宝石が陽光で鈍く光る。


(私も愛してる。力翔が思ってる以上に、ずっと)


 七香の胸の内は、きっと力翔にはお見通しだろう。

 それが全て伝われば良いのに、というもどかしい想いを胸に、七香は瞳を閉じて力翔に身をゆだねた。

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これは大事な宝物なので。 櫻葉月咲 @takaryou

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