第26話 決壊
耳元で囁かれると、はち切れてしまいそうだった。もう、限界だ。そのまま押し倒して——
「……陶磁君」
「はぁ、はぁ……椎倉さん、ごめん」
気がついたら彼女のことを——突き飛ばしていた。自分でも驚いていた。慌てて駆け寄るものの、彼女は驚くと言うより、少し納得したような表情で。
「……ううん、私の方こそ」
「お、俺は……そりゃ、俺だって、椎倉さんのこと……好きだから。そういうやましい気持ちが、ないわけでもない。でも……でも、今じゃないだろって。さっきまであんなに泣いてた女の子相手じゃ……」
「興奮できない?」
「ち、違っ……そういうことじゃなくて」
「うん、分かってる……分かってるよ。陶磁君の優しさでしょ?」
全く手駒にとられてしまっていた。というか、興奮できないなんて嘘だ。色んなことを妄想して、正直に反応してた。気づかれないように中腰で座ってた。我ながら情けなくて泣けてくる。でも。
「……俺も、分かるから。自分が楽になりたいから、自分が傷付けば良いやって考え方。きっと今も、そうなんじゃないかな」
「そうだね。でも、私にはもう、それしかないの」
「それって……愛を探す、ってこと?」
「……そう。出来ることなら、もう一回あの子に会いたい。会いたいの……それは欲張りだって分かってるけど。でも、もしも会えるなら、私は悪魔にでも魂を売ってしまうと思うッ……」
少し考えて、理解した。彼女はまだ、赤ちゃんに未練があるのだろう。それはそうだと思うし、男でこの年、未経験の俺には到底理解しきれないものがある。
だからと言って、子供ができたとして、自暴自棄になるような生き方じゃどうにも解決しない。その子供もまた周りから嫌われてしまえば、彼女はまた自分を犠牲にするかもしれない。そんなの負の連鎖だ。
「欲張りじゃないけど……それが目的になるのは、なんとなく違う気がするんだよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
「……私を守ろうとしてくれてるんだ」
「う、うん」
「けど、これから先、陶磁君が居なくなったら?」
「いなくならないよ。椎倉さんのために、耐え続ける」
不意に出た言葉。強がりだったかもしれないけど、本心だった。その言葉に彼女は少しだけ表情を明るくして。
「それ、お母さんも同じことを言ってた」
「……俺は、大丈夫」
「それも、私と同じ考えだよ」
彼女に言われて、ハッとする。そうだ、同じじゃないか。楽な方向を選ぶために、自分が犠牲になれば良いって。
「意地悪言ってごめんね? 分かってるの、もう。陶磁君だって優しさで言ってくれてるけど、妹さんのこと思い出したら、そんなこと言えないでしょ?」
「……いや、それは」
「いいの、大丈夫。私はそんな陶磁君が——ううん、だから私ね。実は決めてたんだ」
「決めてた?」
彼女はそう言って座ったまま体を動かして、先の桐の箱を持ち出した。
「ここで死ぬの」
「……え?」
「切腹しようと思って。さっき陶磁君に襲い掛かったのは、怖いのを紛らわすためなの。だから、許して?」
「切腹、って……」
「さっき見たでしょ、短剣。この間手に入れたの」
「い、いやそうじゃなくて、その」
「……だって、私なんかいない方がいいでしょ。嫌われてるんだし」
「そんなわけ……そんなわけない!」
彼女は笑いながら短剣を取り出した。やっぱり正気じゃないと思って、思わず怒鳴った。人に向かって声を荒げたのは初めてだった。だからその後の声が震えてしまって。
「一回目だって、自殺したのに……いや、自殺したからまた自殺しようって簡単に思うのかもしれないけど……そんなの解決じゃないって。もっと方法があるはずだ」
「……ないよ、そんなの」
「わかんないだろ。もう少しいろいろ探してからでも遅くないって。自殺なんて最後の手段で、死んで終わりなんて楽に終わらせるなんて」
「楽なわけ、ない」
ポツリと彼女が呟いた。
「あ……い、いや、今のは違」
「簡単じゃない、死にたくない……死にたくないよ!!! 当たり前じゃん!!」
彼女を止めるのに必死で漏れた失言が、彼女の地雷を踏んだ。初めて彼女の叫び、怒鳴り声を聞いて、思わず言葉が詰まる。そうしてまた、彼女は泣き出していた。正真正銘俺が泣かせた。
「誰が、誰が死にたいと思って死ぬの? 痛いし、怖いし、嫌だよ。何より、誰にも愛されなかったから死ぬなんて、こんな惨めて辛いことないでしょ? 誰からも葬式に来てもらえない、気づいてさえもらえなくて、お墓に埋めてもらえるかもわからない。それでも今生きてるよりはマシだって思うの。それくらい今が地獄なの!!」
彼女の叫びは続いた。
「耐えて耐えて、ずっと耐えてきた。唯一の愛が救いになるなんて思ってなかったけど、それに縋ってきたの。でも、私の中ではあの子が死んだ時、終わってた。その痛みが辛すぎて、天使とかいう悪魔と契約しちゃったの」
彼女は俺に向かって、見たこともない形相で嘆いた。その目が辛くて、俺は堪らず目を伏せた。何も言えないまま、彼女が握った短剣を見据えていた。
「……だから、これは罰。私は、元の椎倉時雨と、お母さんを殺して、もうこれで3人目。普通に考えたら、死刑でしょ? ね、自殺するのがおかしくなんてないんだよ」
「……」
「……でも、一人で死にたくなかった。そんな時陶磁君と出会ったの。本当に嬉しかった。それと同時に、また失ってしまうんじゃないかって恐怖に何度も襲われて、吐いたりもしたよ。だから陶磁君に、甘えたくなかった。それでも陶磁君はずっと優しかった。平気なフリしてたけど、何度も陶磁君の優しさに救われた。ううん、縋ってたの」
彼女の言葉に、少し顔を上げる。そうして辿るように、彼女を気遣うように。
「俺は別に何も。今も何も出来てない。椎倉さんのことを、もっとちゃんと助けたかった」
「ううん、十分助けてもらってるよ。陶磁君は自分のこと悪く言うけど、私は逆にどうしてって思ってた」
「それは……陰キャラだし、喧嘩も出来なきゃ会話も下手くそ。すぐ相手の顔色窺って言いたいことが言えない。だから椎倉さんのこと助けたつもりで満足してたんだ」
それは本心だった。こんな時だって、何も変わらないと思ってる。
主人公になれない、俺なんか何も出来ないんだって僻み続けた。けど逆に言えば、こんなんでも高望みしなきゃ生きていけるんだって開き直ってた。
だからこそ、椎倉さんと出会ってから無力さを痛感した。自分の弱い所、苦手なこと、全部見ないふりしてきたツケが回ってきて、いざ欲しい時に何も出来ない。都合のいい時に主人公になりたいだなんて、努力してる人に申し訳ないよな。
思わずそんな自分がカッコ悪くて、嘲笑が溢れてしまう。彼女の体の良い励ましは、俺の傷口に塩を擦り込むものだった。けれど、彼女は。
「……私も自分の悪いところばっかりみるけど、陶磁君の良いところは沢山見えてたよ。優しいところとか、真面目なところ。不器用でも慣れてなくても、動いてくれるところ。それに、いつだって不満そうだった。歯痒いんだって、顔を見れば分かったよ」
俺がいじけてるのも見えてるのに、褒めるのを辞めてくれない。その度に自分が惨めになるんだ。彼女の目の前でどんどん体が縮んでしまっているんじゃないかって錯覚するくらいに。それでも彼女の言葉は、耳に入っていた。
「ね、陶磁君はさ。本当はもっとこうやって出来たらって、理想があるんだよね。本当は、悔しくて仕方ないんだよね。でもそれって、ちっともカッコ悪くないよ。それでも諦めずに……そうやって私のために頑張ってくれてること、嬉しくて。もっともっと私のためにって考えてくれるの、本当に嬉しかった」
彼女にそれを言われると、くすぐったかった。目頭が熱くて、思わず上を向いてしまっていた。何か喋ると何か出てきてしまいそうで。
「……たった数日だけど、私に優しくしてくれてありがとう。これなら私が一人で自殺しても、陶磁君は覚えててくれるって思ったけど、やっぱり怖かった」
そう言って彼女は短剣を見つめる。見るからに鋭い切れ味の短剣が不気味に光って、彼女はそれを自分に向けた。
「切腹、憧れてたんだ。散り際も美しい、武士道。なんて、私はむしろ罪人だから筋は通ってないけど。そうやって紐づけたら、自殺も少し楽になるかも、なんてね。でも、昨日も一昨日も出来なかった。どうしてだと思う?」
「……そりゃ、やっぱり怖いからじゃない?」
ようやく言葉が出るようになって彼女の問いに答えた後、彼女はぶー、違いますと言ってから満面の笑みで。
「陶磁君の顔が浮かんじゃったから」
「……え?」
彼女は照れたように顔を赤くした。その言葉だけで、また時が止まったみたいだった。
が、その後短剣を差し出されて、思わず受け取ってしまう。想像以上に重たいのは真剣だと聞いたからなのか。彼女の言葉の余韻のせいなのか。
「そういうわけだから、はい、陶磁君」
「な、何」
「それで私のこと、殺してくれる?」
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