第16話 心的外傷後ストレス障害

 理於が7歳の時、俺は10歳だった。

 父親は起業家。若くして結婚して母親と共に俺たちを育て、俺が5歳くらいの時にはまた事業を始めたのがきっかけで離婚してしまったらしい。


 その後祖母に引き取られるものの、数年で祖母は体調を崩し、そのまま亡くなってしまう。一方の親権を持った父親は俺たちに家を買い与え、育児などほとんどせず、時折ハウスクリーニングの家政婦を遠隔で遣すような人間だった。


 故に、俺も理於も両親の顔をほとんど見ずに育ち、小学校の頃からお互いのことはお互いでやるように努力してきた。


 ただ、そんな自由奔放、傍若無人な性格の父親が同業から反感を買い、恨まれることは想像に難くない。何かしらの事業で余程の強い恨みを買われたんだろう。父親の事業の一つに難癖を付けられ、大きく炎上させられた挙句、どういう流れか俺たちの家……いわゆる別荘になっていた家の住所が流出してしまった。


 それから俺たちは毎日の嫌がらせに耐えた。何度か父親の会社の人が様子を見にきてはパパラッチや野次馬、悪戯目的の人間を追い払ってくれたが、夜になるとそういう人間はまた顔を出してきた。


 そしてとある日。俺が小学校から帰るまでの時間。


 理於は表面にこそ見せなかったが、少しインターフォンの音に過敏になっていた。ノイローゼ寸前、執拗なピンポンダッシュに悩まされたことがあった。


 そしてその日もインターフォンが鳴った。理於ははじめ聞かないフリをしていたが、玄関越しに男の声が響く。


「すみません、宅急便なんですけど、品物を受け取ってもらえませんか。もう何度も来ていて、受け取ってもらえないと困るんですよ」


 それを聞いて理於は申し訳ないと思ったのか、おそるおそる玄関の扉を開けた。そこに立っていたのは宅急便の服を着た、暴漢だった。


「や、やめて!!! は、離して!!!」


 理於は必死に抵抗した。しかし大人の男の力に逆らえるわけもなく、そのまま玄関先まで押入られてしまう。


 SNS伝いか何かで知ったのだろう。男はもとから理於を狙った小児性愛者だった。力任せに彼女を押し倒し、泣き叫ぶ彼女の服に手をかけた瞬間。


「……てめぇ、ぶっ殺してやる」


 あわや帰宅した俺は手に持っていた傘で容赦無く男の背中から後頭部まで殴りかかった。男は必死に抵抗するものの、片目に傘が突き刺さったせいでその場から逃げ出してしまう。


 その後男は逮捕された。だが、理於の心には深い傷が残った。


 中学生になった今でも、PTSDが起こる。そのため家のインターフォンは鳴らないようにしているし、もちろん自宅はあの頃とは違う所に引っ越しをした。



「……お前が中途半端なことをしてるから、理於があんなことになったんだ」


「あぁ、悪い悪い。次はちゃんとうまくやるからさ。住所も変えとくし、なんならSPもつけるよ。だからうまくやっといてくれよ、文也。犯人も特定したし、直に捕まる。その様子じゃ、理於の敵討ちがしたいんだろ? 新居と一緒に、父さんからプレゼントしてやろうか?」


「今はそんなこと、どうだっていい……お前は、父親なんかじゃない」


「ん、あぁ、なんとでも言ってくれ、これからまた商談なんだよ。ったく、困っちまうよなぁ、能力もないのに僻むのだけ達者なゴミ共のせいで、また一からやり直しだよ」


 じゃあなと病院には不釣り合いなカジュアルスーツに身を包んだ男が手をひらひらさせて去っていく。ゴミはどっちだ。理於が小学校を保健室と病院で過ごしている間、父親はそんな軽口の一つ二つで済ませた。それ以来、俺たちに両親、せめて父親というものは存在しないと思っている。


 中学生になった俺は、妹を救いたい一心だった。これから先、あいつはどうやって生きればいいんだ。男性恐怖症になって当たり前だ。驚かされるようなことだって無理だろう。当たり前の生活を、あいつにぶち壊しにされたんだ。


 けれど、許せないという思いより、今は妹のために何かをしたい。そうだ、せめて慎ましく生きて行こう。二人で差し障りないように。


 そう思っていながら、自分自身の弱さを埋めるように、俺は俺でアイドルに夢中になっていた。


 自宅で二人きり。何気なくアニメを見ていて、作中でインターフォンが鳴ってしまえば、彼女はパニックを起こす。俺が後悔した時には遅く、焦点の合わない彼女は蹲る。


「い、いや……やめて、はなして……」


「あ、ご、ごめん、理於。今のはアニメだから」


「や、やだ、やだやだやだ……!」


「理於! しっかりしろ、悪い、俺が悪かった……理於……」


 自分の無力感、やるせなさと、この世に潜む悪意に辟易していた日々だった。


 *


 それを支えてくれたのは、同性で理解をしてくれる甘の存在。


 甘のおかげで理於の症状は相当に良くなり、今では中学に通えるようになっていた。


 けれど、どうしてこのタイミングで発症したのか。インターフォンの設定を見れば、なぜか音が出るように変えられていた。


 そしてそこには顔は写っていなかったが、俺の学校の制服を来た人間が何人も映っていた。これが悪意ある人間の仕業だとしたら、俺たちの手に負えないところまで来ている。そう、いつかの騒動の時のように。


 理於は少しして落ち着くと、そのまま眠ってしまった。電気を消したままリビングで、俺は自己嫌悪に陥っていた。


「……俺のわがままで、また理於を傷つけてしまったのか」


 なんで、どうして。ただ俺は、一つの恋をしただけなのに。俺の一番大切な家族を、なんで巻き込まなきゃいけないんだ。


 甘はそれを理解していて、あんな風に必死で止めてくれていたのだ。けれど、だとしても分からなかった。頭が張り裂けてしまいそうだった。わざわざ理於を傷つけてまで、俺と椎倉さんを淘汰したいほどの理由が。


 理於をこれ以上傷つけたくない。それは優先すべき気持ちだった。ただ、それだけじゃ解決しないような気がした。


 俺個人の気持ちは、一度置いておく。その上で、確かめなければいけない。


「椎倉さん」


 ……俺はやっぱり、貴方が好きだ。ここまで八つ裂きにされ、改めて自分自身を否定されても、この感情の炎が消えそうにない。


 いいや、本当はとっくに諦めてるのかもしれない。理於のために全てを投げ捨てるのなんて、今に始まったことじゃない。椎倉さんのことを諦めてそれで済むのなら、喜んで諦める。


 けれど、それじゃあ解決しないんだ。彼女がいなくなれば、また俺は何かを失う。理於を守れず、甘にも尊敬されず、両親に愛されない、友達もいない残念な高校生のまま成長しないで歳をとっていく。


 それは、嫌なんだ。仕事だけ出来て尊敬できない父親のような大人にも、そんな大人を羨んだ挙句、他人を平気で蹂躙しようとする大人にもなりたくない。何もない自分は、何かを手に入れたい。傲慢でも、俺が守れるものをできる限り守りたい。


 ……その先で、何かを見捨てる必要があるなら、その時は。


「なんで、なんだよ……」


 両手で顔を塞ぐ。自分の不甲斐なさに、思わず泣き出してしまいそうだった。答えも出ないまま葛藤に苦しんで、寝苦しい夜は過ぎていった。


 *

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