エピローグ -side 理於-
お父さんが冷たい人だってことは、後から分かった。私はずっと不安で、ただお兄ちゃんの後ろを着いて歩くばっかりだった。
小学生の時、お母さんがいないことをクラスの子に言ったら、
「えー、理於ちゃんのとこ、お母さんいないのー」
「う、うん」
「あ、そういえば授業参観で見たことないもん」
「可哀想だね」
「そう、かな」
「可哀想だよ。だってうちのお母さんすっごく優しいし料理も美味しいの」
「うちのママだってすごいピアニストなんだよ。理於ちゃんはそういうのが出来ないし知らないんじゃん。可哀想だよ」
そう言われて、ひどく落ち込んだことを覚えてる。
家に帰ってからお兄ちゃんに気づかれて、どうしたんだって聞かれたから。
「……ん? 可哀想?」
「お母さんがいないのが……可哀想、って」
「あぁ、そんなのは理於が決めることじゃね」
「え?」
「お母さんが居ないのは理於のせいじゃないだろ。だけど、理於が今楽しく暮らせてるなら、可哀想なんかじゃないし、そんなの勝手に言わせとけばいいんだ」
「……そっか」
「まあでも……ほとんど俺と二人だけで、しんどいことの方が多いだろうけど」
「お兄ちゃん、あのね。理於は楽しいよ!」
「……え?」
「お兄ちゃんと二人で、楽しい。お母さんが居なくても、お父さんとあまり会えなくても、お兄ちゃんが何でもしてくれるから。だから可哀想じゃないよね」
「……そうだな」
そうやって、大変だったけど二人で楽しく生きてた。あの日まで。
——ぁ、え。
何?
——ぇ……る。
だ、誰?
「てめぇ、ぶっ殺してやる!!」
覚えたのはお兄ちゃんの、初めて聞いた怒鳴り声。ううん、初めて聞いたのはいつだったか、お父さんと喧嘩してる時。
でも、怖かった。お兄ちゃんが来るまであんなに怖くて、もうだめだって思ったのに、お兄ちゃんが来てからもっと怖くなった。お兄ちゃんがもし酷い目に遭ったら?
お兄ちゃんまでいなくなっちゃったら、理於は?
「わぁあああああああああああ!!」
お兄ちゃんと二人きりになっても、それが怖くて、怖くて。
インターフォンの音が響くと、それだけで目の前が白黒に歪んでいく。
脳味噌の中が、まるでみかんの皮を剥くみたいにこじ開けられて、そこに生暖かい油みたいなものを注ぎ込まれてく感覚。
視界は放送中止のときみたいに、沢山の四角に区切られて点滅する。体全部が不安で、気持ち悪くて、どこかで限界が来て声が止まらなくなる。
「いや、いやあああ、助けて、助けてお兄ちゃん……やだ、やだよおお!!!」
「大丈夫だ、理於。大丈夫だから」
——ごめんね。
何回も何回も、私のために。お兄ちゃんは昔から真面目で、誰かのために何かをしてくれる人だった。小学校の時も、私の友達に宿題を教えてくれたり、中学に上がってからも、家に友達を呼ぶ時はすぐに片付けてくれたり。
あ、でもクラスの女友達が来る時は、いつもドギマギしてたっけ。女っ気ないんだもんなぁ、お兄ちゃん。そりゃそうだよね、オタクだもん。
——私のせいで。
そりゃ、そうだよ。外に遊びに行く余裕なんてなかった。お兄ちゃん、見た目だってそこそこなんだし、モテないわけない。きっと私のために我慢してくれてたんだ。身なりにも気を使わないで、中学から高校までずっと、私の看病と、家のことを全部してくれてた。でも、それをお兄ちゃんは、してあげてる、なんて一言も言わないんだよね。
——お兄ちゃん。
甘ちゃんには沢山話したよ。お兄ちゃんに言えないこと。何十回も、何百回も、お兄ちゃんごめんねって泣いたの。
「お前のこと、好きな奴がいるらしいぞ」
とか言って、ラブレターを届けてくれた時があったよね。正直、本当に申し訳ないけど、捨ててくれてもよかったんだよ。お兄ちゃんが我慢してて、どうして私が病室でラブレターをもらって、恋愛をしなきゃいけないの、って。
それで、甘ちゃんからも聞いたの。お兄ちゃんが好きだ、って。甘ちゃんならって思ったけど、私……おかしいよね。素直に喜べなかった。私、甘ちゃんにだって、取られたくないなんて思ってた。
——でも、今は違うよ。
だから、ね。お兄ちゃん。もしお兄ちゃんがこの先、好きな人が出来て。付き合いたいとか、結婚したいってなったら、その時は——
*
「ねぇお兄ちゃん、ご飯は?」
「あー、今日は出前とかでいいだろ」
「そーだね。いつも甘ちゃんにばっか頼れないし」
「そろそろ食費渡しとかないとな」
「きっと受け取らないよ、いつもそうじゃん。申し訳ないよねぇ」
「……まあ、有り難く寄り掛かろうぜ。んで、何にすんの理於」
お兄ちゃんは適当に、出前のチラシを持ってきて並べていた。
「ね、お兄ちゃん」
「んー」
「私、生まれて良かった?」
「は?」
「どう? 一人っ子が良かったとかない?」
「何だよお前、急に」
「だってほら。私がいなかったらこの家一人で大変だけど、エッチなゲームし放題じゃん」
「ちょ、お前ッ! それは関係ないだろ!」
「あー、そうでしたね。私がいてもやってるもんねー?」
「……お前がいて良かったに決まってるだろ」
「え?」
「だから、一人はその、色々めんどいし」
「……ふーん?」
「それに、ほら」
「それに?」
「俺にとっての家族って言えば、お前しかいないから」
「……あー、ウザ。模範解答とか求めてないっての〜」
「お前、ウザって」
「ちょっとお試しで聞いたんだけどなぁ。もっと上手くボケるとかさ、あるでしょ? これってあれかなぁ、シスコンとかじゃない? 甘ちゃんに相談しなきゃ」
「いや、お前、誰がシスコンだ。俺がシスコンならお前がブラコンだろうが」
「もー、いいから早く頼んでよ出前! お腹すいたー!」
ねぇ、お兄ちゃん。私の中ではお兄ちゃんが、唯一の家族で。
だって私にとって、お兄ちゃんはずっと昔から、
——いつか、お兄ちゃんに好きな人が出来たら。
その人が、外国の人でも、浮気癖のある人でも……犯罪者でも。
笑ってお祝いしてあげるって決めてるから。
だって、もしそれで私に危害が加わるとしてもだよ。
お兄ちゃんならきっと、守ってくれるよね。
*
「……何、そのびしょ濡れの格好」
「まあちょっと、色々……」
「ふーん、色々ね」
「……悪い、このまま少し休む」
「そ。無理しないでね」
この雨の中帰ってこないで、どうしたんだろう。
そんな話をしてたら、甘ちゃんが怖い顔で話してた。
ずっとずっと、その人の名前が出てくる。
なんとなくその人の名前だけで、ゾワっとする不快感。
でも、どうしてかな。不思議とその人のこと、助けたいって思っちゃうんだよね。ううん、なんだろう。仲良くなりたい、っていうか。会ったこともないのに。
ビシャビシャになった玄関、階段にも伝うように水滴が垂れてた。
「……血?」
赤く、ポツリポツリと血みたいなものが落ちていた。
「お兄ちゃん、もしかして好きな人出来た?」
階段の上のお兄ちゃんの部屋に向かって、聞こえないように呟いた。
お兄ちゃん、あの時もそうだったよ。自分の腕から血が出てるのを忘れて、大人相手に取っ組み合いをしたんだよね。
大切な人のために、平気で命を張れる。私の自慢のお兄ちゃんだから。
「うまくいくと、いいな」
そう呟いて、余計な考えは消し去ろうと頭を振ってから、祈るみたいに両の手をギュッと握った。
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます