第一話①

 アウレスタ神殿は、どの国家にも属さぬ完全独立の宗教組織だ。

『神のの下、世界に秩序と安寧を』

 自らを神の使徒と自負する彼らは、そんな標語を掲げて世界各地に神官を派遣し、悩める人の子らに救いの手を差し伸べている。その歴史はざっと数えて六百年。なかなか年季の入った慈善団体だ。

 救いの内容は病の治療、魔獣の退治、紛争の平定から、災害の沈静化、せ人探しなどなんでもござれ。神殿には各分野に精通した専門家が在籍しており、ありとあらゆる困難を解決に導くことが可能なのだ。

 その頂点に立つのが、八人の聖女である。

 神話に記された八人の乙女の意思を継ぎ、俊英揃いの神官を取りまとめる彼女らは、常に大陸中の人々からのと敬意を一身に集めており、その発言力は一国の王に比肩するとも言われている。

 多種多様な民族・国家がひしめくこの世界において、アウレスタの聖女は最も影響力のある女性たちと言っても過言ではないだろう。

 ……一応、私もその一人だった。




 天井からぽたりと落ちる水滴が頰をらす。四方を囲む石壁は冷たく湿り気を帯びていて、凍える体から熱ばかりを奪っていく。かじかむ足先をさすりながら、私は真っ黒な天井をぼんやりと仰ぎ見た。

 ここは、アウレスタ神殿東の塔最上部にある懲罰房。教則に背いた神官が、おのが罪と向き合い、悔い改めるための場所だ。

 広さは両手を広げれば、左右の壁に手がつく程度。家具は粗末な寝台と、座ればひしゃげそうな木製の椅子、灯の消えかけた魔力ランタンがあるだけ。当然ながら窓はなく、びついた鉄扉だけが外界とこの房をつないでいる。

 懲罰房に入るのは、これが初めてのことである。狭くて暗いだけなら大してつらくもなかろうと高をくくっていたけれど、房に放り込まれてから三日ほど経過したところで、私は根をあげそうになっていた。

 硬い寝床は問題ない。ほとんどあかりのない環境にも適応できている。湿っぽいのも我慢しよう。昔寝起きしていた神殿学校の宿舎も、しょっちゅう雨漏りしていたから。

 ──だけど、寒い。とにかく寒い。季節はもう春だというのに。

 微睡まどろもうとも即座に冷気が眠気を振り払い、思考にふけろうとも震えで集中が途切れてしまう。そのせいで、いくら待てども時間は遅々として進まない。寒さがこれほど心と体を削るものだとは知らなかった。何事も経験である。

 おまけに……

『いや……ここから出して。私は何も盗んでなんかいない。ぜんぶ、同室の子がやったことなのよ。それなのに、どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの……』

 部屋同様、湿っぽい女の声。

 そっと房の隅を横目で見ると、そこにはひざを抱えて体を震わす女神官の姿があった。

 顔は見えないが、声や体つきから受ける印象はまだ若い。身にまとう神官服は数十年ほど前のものだ。すそから伸びるき出しの足は死者のように青白い。

 否、〝死者のように〟ではない。彼女は正真正銘、死者だった。

『寒い、寒いの。誰か助けて。このままじゃ私、死んじゃうわ……』

 うん、その通り。説得力に満ちた発言を聞いて、なんともゆううつな気持ちが胸にこみ上げてくる。

 ──このように、私には常人よりも多くのモノが視えている。

 それは精霊であったり、幽霊であったり、魔力そのものであったり。視えるモノの種類は多岐にわたり、何が視えていて、何が視えていないのか、正確なところは自分ですら把握できていない。

 ただ、先刻からうつうつとした嘆きを繰り返している懲罰房の先客が、人ならざるものであることは確かだ。私をここに閉じ込めた看守たちには、彼女が見えていないようだったから。

 発言の内容から推測するに、彼女は無実の罪で懲罰房送りとなり、そのまま命を落とした見習い神官であるようだ。息絶えたことに気づいていないのか、彼女は部屋の端で丸まって、見えぬ誰かに助けを求め続けている。その声が大きくなればなるほど室内の温度は下がっていき、冷気が肌を容赦なく突き刺してくるのだった。どうやらこの寒さは、彼女のせいでもあるらしい。

 これが他の聖女たちだったなら、自分の体を温めたり、哀れな霊を浄化させてやることができたりするのだろう。けれど視るしか能のない私は、ただただ震えることしかできやしない。

 ……オルタナ様やミアの主張はあながち間違いではない。

 はっきり言って、私は歴代聖女の中でも類を見ないほどの役立たずだ。癒しの奇跡は使えないし、戦いの才能もない。一般的な魔術も、魔力がないから使えない。

 ミアは私がさしたる業績を残せていない、と批判していたけれど、本当にその通りなのだ。

 数少ない仕事の中で一番大掛かりだったものは、魔術で神の奇跡を演出し、人々から寄付と称して金品を巻き上げていた、詐欺師たちの悪事を暴いた事件だろうか。それなりに感謝はされたものの、大規模水害を鎮めたり、凶暴な魔獣を討伐したりと英雄たんさながらの活躍を見せる他の聖女たちと比べると、何とも地味な手柄だった。

 それに、私が不相応な立場にいるというのも事実だ。私は見習い時代からさして優秀でもなく、むしろ落ちこぼれの部類に入る人間だった。それなのに、当時主席聖女であった師・ジオーラの一声で、一年前、突如聖女の末席に加わることになってしまったのだ。

「これは予言だ」

 聖女選出会議で渋るお偉方を相手に、ジオーラ先生は高らかにそう宣言した。

「こいつの力は真実を見通す。いずれ役に立つだろうから、今のうちから聖女にしといて損はないよ」

 思い返せば、何ともいい加減な主張である。しかし未来を見通す〝さきの聖女〟の言葉とあっては、誰も異を唱えることができなかった。

 だが、私にだけ霊やら精霊やらが視えたところで何かの役に立てるはずもなく。そうこうしているうちにジオーラ先生はあっさりとあの世へ旅立って、私の有用性を保証するものは何もなくなってしまったのだった。

 だから先生が亡くなり、オルタナ様が次の主席聖女に決まった時から、私は覚悟していた。

 オルタナ様は、勝手気ままで自由な気風の先生を毛嫌いしていて、私の聖女就任の際も、ただ一人最後まで反対の声を上げていた。そんな彼女が、私がのうのうと聖女の座に居座り続けることを許すはずがなかったのだ。

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