Episode3 熱帯夜に溺れる
3−1
晴れて恋人となっても莉子と純は職場ではふたりの関係は秘密にしようと約束した。提案したのは莉子の方だ。
社内恋愛は当事者が知らない間に噂が広まっているものだ。現に、荒木史香が既婚者の主任に熱を上げていることは文具売り場の店員達には周知の事実だった。
莉子は来春には書店のアルバイトを辞めるが、正社員の純はこれからもここで働いていかなければならない。
「若い女に手を出した」と何も知らない人間に純を揶揄されたくはない。35歳正社員と19歳アルバイトの恋愛の外聞は良くはないだろう。
彼の立場を悪くさせる要因は作りたくなかった。
だから莉子は、仕事中は甘い空気を出さないよう極力努めた。純はやはりその辺りの切り替えが大人で、莉子よりももっと上手くやっていた。
告白後に初めて職場で顔を合わせた火曜日は事前にメールでやりとりをしていた。わざと時間をズラしてそれぞれ退勤したふたりは八丁通り前の例の公園で待ち合わせた。
莉子が公園に向かうと、先に到着していた純がベンチで待っていた。
「今日も疲れたぁ」
「お疲れ様」
ようやく純と過ごせる甘い時間に心が躍る。園内の自販機で買ったジュースでふたりは乾杯した。莉子はレモンソーダ、純はアイスコーヒーだ。
「今日、試験結果が出たの。ひとつだけ追試になっちゃった」
「そっか。追試いつ?」
「明後日。それに合格すればやっと夏休み」
辛い追試の後は純との初デートが待っている。そう思えば追試も乗り越えられる。
「俺は何も出来ないけど、追試頑張れ」
「うん。純さんは一緒にいてくれるだけでいいの」
彼の手が優しく莉子の長い髪を撫でていた。
夏のむわっとする熱い空気と少しだけ冷たい夜風が初々しい恋人達に寄り添っていた。
*
7月第3週の日曜日は真夏日だった。太陽は青空の中心でギラギラと輝いていて、莉子の頭上を容赦なく照り付ける。焼けると言うよりも焦げてしまう暑さだ。
駅ビルの自動扉をくぐると店内の冷気にホッとした。時刻は約束の15分前。化粧室でメイクとヘアーの最終チェックをする。
口紅を持つ莉子の爪は細かなシルバーラメ入りのペールピンクのマニキュアで彩られていた。本音はもう少し派手めにネイルも着飾りたかったが、年上の男性との初デートはこのくらいの控えめな雰囲気がちょうどいい。
それに純の好みもまだわからない。意外と派手なギャル系が好きかもしれないし、大和撫子なお嬢様系が好みかもしれない。
男受けは気にしなくても、好きな人受けは気になるものだ。
(このリップの色、最高に可愛いっ! 今日は名付けて〈思わずキスしたくなる唇〉にしてきたんだよね。いつ何が起きても大丈夫っ。カモン純さんっ!)
駅ビル内の化粧室でメイク直しを済ませ、エスカレーターで2階に上がった彼女の足取りは軽い。
そこそこ客足の多い人の波を掻き分け、待ち合わせ場所とした書店の前に辿り着いて、深呼吸。
もう来てる? まだ来てない?
書店を見回すと、ひときわ長身で細身の男性の背中を見つけた。見つけた瞬間に高鳴る鼓動があの背中が彼だと教えてくれる。
「純さん」
近付いて彼の名を呼んだ。雑誌を見ていた竹倉純は莉子を見て微笑する。
「こんにちは」
「……こんにちは」
仕事以外で顔を合わせるのは今日が初めてとなり、やけに緊張して互いに照れ臭い。
純は無地のグレーのTシャツにジーンズ姿、帽子やアクセサリーの装飾品もなく、嵌めているのは腕時計のみ。仕事の帰りにいつも見慣れている彼のスタイルだ。
しかしお洒落をしている風ではないけれど清潔感がある。清潔感は男に最も必要なものだ。それさえあれば着飾った服装をしていなくても問題ない。
「今日暑いね。ここまで来るの大変じゃなかった?」
「暑くて焦げそうになっちゃった」
「ははっ。莉子ちゃんは言うことが面白いなぁ」
純が読んでいた雑誌を棚に戻し、莉子達は書店を出て駅ビル内を歩く。
「昼飯どうしようかと思ったんだけど、食べてきた?」
「クロワッサンつまんだだけだから、お腹は空いてるよ。純さんは?」
「俺も朝にトーストかじっただけ。ランチにしてがっつり食べる? それともカフェとかで軽い物の方がいいかな?」
現在の時刻は13時。今から本格的なランチは胃に重たい。
「カフェがいいな」
「わかった。カフェならこの中にある店でも良いんだけど、コーヒーが美味しい店を知ってるんだ。そこに行こう。地下に車駐めてあるから」
駅ビル内を地下まで降り、専用通路を通って地下駐車場に入った。入り口に近い位置にある黒い車が竹倉純の車だった。
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