2−8

 子供が遊ぶ時間は過ぎている。夜が迫る公園に莉子達以外の人の気配はない。

 純の横顔を見つめる莉子の眼差しは熱い。純は莉子には視線を送らず、遠くを見つめていた。


「私の好きな人が誰か、気付いているんじゃないですか?」

「いやー、どうかな。俺の勘違いかもしれない」


(え、何なに? なんなのこの駆け引きはっ!)


 一体なんだろう、この微妙に甘ったるい空気は。


「竹倉さんて、思っていたよりも意地悪ですね。年下からかって面白がってます?」


 彼の余裕の態度に悔しくなってつい可愛げのない言葉が出てしまった。可愛く切り返したいのに素直になれない。

 好きな人の前ほど素直になれない。


「……面白がってはいないよ」


 純の声のトーンがわずかに低くなる。甘い低音が、耳にこそばゆい。


「でもここは男から言わせてね。……好きだよ」


 純に告白しようと思っていたのに、まさか彼から告白されるとは予想もしていなかった。

 精一杯大人びてみても莉子はやっとハタチになる小娘だ。精神的にもまだまだ子供で酸いも甘いも知り尽くした女でもない。


 純は35歳の男。仕事の先輩後輩から関係が進展しても、せいぜい良くて妹的な存在になれるだけだと思ってた。

 告白しても振られると思っていた。


「オジサンが何言ってるんだって気持ち悪がられるかもしれないから、この気持ちは言わないでおこうと思っていたんだ。でもこうなったら正直に言うと、一目惚れだった。初めて見た時に美人な子だなって思って」


(え? もしかして私、今口説かれてる? 35歳の男に口説かれてる!?)


「一目惚れって、私と最初に会った日に?」

「そうだよ」


 純との出会いはバイトを始めて2日目だった。そうなると、純が莉子に惚れた時期は3月の頃にまで遡ってしまうではないか。


 莉子は頭を抱えて唸った。混乱する莉子を見守る純も困った顔で微笑んでいる。


(ちょ、ちょっと待って。頭がパニックで状況整理が追い付かない)


 純が莉子を好きと仮定してこれまでのふたりの経緯を思い出せば、莉子を常に気にかけてくれたことも休憩室でいつも斜め向かいの席に座る彼の行動の不可解さも説明はできる。


「俺は押しが強い方じゃなくてね。押しが弱いとよく言われるんだよ」


 脚を組んで溜息をついた彼は組み合わせた足元に視線を落とした。


(えっ、それで押しが弱いんですか? 今の状況はめちゃくちゃ押せ押せ☆になってる気もしますが? 確実にイケると思わないと自分からガツガツ行かないタイプ? 肉食系よりは草食系? それとも草食系に見せかけて実は肉食のロールキャベツ系? 葉っぱにくるまっていたと思ったら中にジューシーなお肉がありますよーってヤツ?)


 状況理解の追いつかない莉子はただいま心の声が大暴走中。危うくすべて口に出して心の声を暴露してしまいそうになった。


「佐々木さんくらい若い子だと俺みたいなオジサンは気持ち悪いだろ?」

「オジサンレベルにもよります。気持ち悪いオジサンと気持ち悪くないオジサンがいますよ」

「俺は気持ち悪くないの?」

「はい。って言うか、好きな人を気持ち悪いとは思わないです!」


 勢い余って好きと言ってしまった。気持ちがバレていると思うとやけくそにもなれた。

 純は無言で莉子を見つめ返した。


「先月の土曜日、井上さんと3人で帰りが一緒になった日を覚えていますか? 3人でエレベーターに乗って」

「ああ、うん。覚えてる」

「その時、竹倉さんが全然私を見てくれなくて悲しかったんです。先にスタスタ歩いて帰って行っちゃって……」


 純は額に手を当てて溜息をついた。子供っぽいと呆れられた? と心配したのも束の間、彼の態度を見るとそうではないようだ。


「ごめん。傷付けちゃったね」

「私のことが好きならなんであの時……」

「井上くんと仲良くしてるところを見たくなかったんだ。大人げなかった。ごめんね」


 また溜息をついた彼は、そのままうなだれてしまう。しゅんと肩を落とした純は飼い主に怒られた犬に似ていて、不謹慎ながら莉子はその姿を可愛いと思った。


「あの時のワンピース、竹倉さんのために着たんですよ。あなたに可愛いと思ってもらいたくて」

「じゃあまた俺のために着て欲しい」

「……っ! その言い方はずるいっ!」

「ずるいのはそっち」


 莉子はいつの間にか純の腕の中に閉じ込められていた。


「私、ずるいの?」

「その泣き顔がずるい。可愛すぎる」


 自然と溢れる涙はあの雨の日に流した涙とは違う、嬉しい涙と安堵の涙。

 35歳の彼の前では莉子はお子ちゃまだ。酸いも甘いも知り尽くした大人の女には程遠い。


 彼の胸元に顔を伏せる。細身なのに男らしいしっかりした胸板やたくましい腕に抱き締められて、全身から男を感じた。


 初めて出会った瞬間からふたりは両想いだった。その事実に互いに気が付かないままヤキモキして、苦しんで泣いて。

 ふたりはどこか似た者同士だ。


「好き……」

「俺も。好きだよ」


 頭上の空はオレンジからピンク、ラベンダーへ、そしてだんだんと夏の夜色に染まっていく。

 夏のはじまり、19歳の女と35歳の男は夢を見ていた。

 恋という名の儚い夢を。

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