第2話 展開が早すぎる女の話
「まま、これ見てー?」
リビングで仕事をしていると、横で静かにしていた娘の
丸の中に点々がある。
「スミレ、これはなあに?」
「えっとね、ままだよ?」
瞬間、わたしの中に強烈な何かが溢れて来た。
いけない、この衝動のままに菫を抱きしめたなら絞め殺してしまいそう。
力加減ができませんっ!
「ねえ、横の点々はなあに?」
「んふーっ、これはしゅみれ!」
「ありがとね。ママ嬉しいなあ」
そう言うと菫はご満悦な表情でお絵かきに戻った。
うん、うん……ママ途中でスン……ってなったけどそこは母親としての意地と矜持で笑顔は維持したよ。
嬉しいけどさ、菫の横のわたし……どうみても巨人くらいのサイズなんだ……。
ねえ菫、ママはね、壁の外にいる系高身長女子じゃないんだよ。
その作品はこの世界に存在しないけどさ……ちゅらい。
さてわたし、桧山アリスはどうにか激動のティーン時代を潜り抜け、前世と同じ大学に入った。
同性からの嫉妬による虐めをスルーし、男子からのラブ光線をいなし、氷の女だの鉄の女だのと言った蔑称をクールに受け止めながら。
ちなみに最後のはホントやめて。わたしの名前はアリーチェであり、マーガレットではないのだから。
アリスと名乗ってるのはスペルがAliceだから。イタリア語だとアリーチェなんだよね。数少ないけど親友たちからはアリーって呼ばれてるし、なのでお仕事ではアリスって言った方が呼びやすいって事情でございます。
前回と明確に違うのは、前世では文科一類を選んだけど今回は理科一類で受験したこと。
法曹業界に行くつもりはないので、せっかくだから理系に行ってみたかったんだ。
もし合わなければ途中で方向転換できるのも東大の利点だしね。
進振りってシステムは本当に凄い。
大きな転機になったのは、院に進もうか悩んでいた頃だ。
工学部に進み、機械設計やそれに関わるシステムの研究をしていたわたしは、将来はエンジニアとしてメーカーの開発部門に進みたいと漠然と考えていた。
昔からDIYは得意だったけれど、構造を学びたくて親友の実家の修理工場に出入りするようになり、廃車置き場にある車のエンジンをバラシて組んだりとかしていたら、どうにも楽しくてね。
ああ、意外とこっちに適正があったのかもと嬉しい驚きを感じた。
そんな時に出入りしていたゼミの教授と男女の関係になったんだ。
まるで青天の霹靂だよね。
相変わらずわたしの性自認は男性寄りだしさ、その事は教授にも言っていた。
だって隠していないしね。
親友たちもわたしの事情を知った上で付き合ってくれている。
それにわたし自身、あまり性欲がない。
幼い頃から自分の性をどう扱えばいいか悩んできたからか、自然とセックスについては無意識に忌避していたのかな?
カウンセリングを受けた事もないから詳しいことはわからないけれど。
そう言えば思春期以降、自慰をした記憶もあまりない。
数回はしたんだ。まあ女になってるしそう言う興味本位からね。
けど所詮は自分の身体だから、物珍しさはないんだ。
教授は「議論好き」と呼ばれている程にディスカッションが好きな人だ。
見た目は年齢通りに見えない小柄で童顔な人だけれど、何というか頭の良い人特有の毒がある。
それで学生たちからは煙たがられる事も多かったけれど、わたしはとてもウマがあった。
で、何かのきっかけで一緒にお酒を飲むようになり、色々な事を話したと思う。
それで一時は議論が高じて熱くなっても、まるでラグビーの試合のように、ある程度満足したらノーサイドになる。
話題は何でもいいんだ。ほんと目に付いた酒瓶の形がどうしてこれになったのか、とかでもね。
そうしているとわたし的には彼を年の離れた友人に認定していた。
わたしの性が男性のつもりだったからもある。
だから教授の家に出入りするようになった。
彼の家には蔵書が山ほどあって、それ目当てでね。
大学が本郷だけど、彼の家は神田にある。わたしのアパートからも近くてね。
死んだご両親から相続したボロ屋をリフォームして、シングルで生活するスタイルに合わせた贅沢な自宅だ。
家の殆どの部屋の壁はビルトインの棚になっていて、どこに行っても本がある。
わたしはそこに入り浸り、貴重な専門書なんかを読み漁った。
特に構造デザイン関連の書籍は豊富でとても興奮するんだ。
それに教授は50歳を過ぎた人だし、そのくらい年齢差がある方がおちついて喋れるのかもね。
とか勝手に思ってたんだ。
でもね、やっぱり男と女は違うんだなあ。
後悔はしてないけど迂闊ではあったね。
彼は50過ぎで、本人も枯れたつもりでいた。
かつて結婚していたけれど、奥様は病気で他界されている。
そんな奥様への操立てじゃないが、教授自身もそう言う男女の問題からは意識的に距離を置いていたのかもしれない。
けれどやっぱりわたしの存在は彼のそういう部分を擽ってしまったらしい。
男性的な意識のせいで、露出に関して気を回さず、暑いから薄着みたいな脊髄反射的な行動をしていたからなあ……。
ある日の夜、彼の書斎に入り浸って本を読んでいた。
やがて彼が帰ってきて、わたしの横で晩酌を始めた。
わたしも勝手に飲んでいるけどね。
教授のキャビネットには美味しいお酒がいっぱいあるのだ。
年代物のシングルモルトばかり飲んで本当に申し訳ない。
そして酔いが気怠さを醸した頃、彼はごめんと言った。
なにが? って思ったら、静かにキスをされた。
不思議と嫌悪感は無い。
女の感性が目覚めたって事もない。
むしろ冷静に教授を観察していて、その上で「女としてキスされるとこういう感覚なんだぁ」なんて思っていた。
慌てて我に返った彼が離れたけれど、わたしは教授を撫でた。
まるで子供にするように。
なんかね悪さをして叱られた時の子犬みたいだったんだよ。
教え子であることやその他倫理観。
それが一気に彼を責め立て、冷静になったんだろう。
けどわたしはそれで気持ち悪かった訳でもないのだ。
だからそんなに悲しむ事はないのだ、そういう思いで頭を撫でたんだ。
そしたら胸に縋って抱き着いてきた。
まあね、彼はわたしよりも小さいし、細くて軽い。
ソファーに並んで座っていたら、そういう体勢になっちゃうよね。
で、ここからが問題なんだけど、わたしは「セックスをしましょう」って言ったんだよ。加えて「性自認はきっと今後も変わらないけれど、それでも良ければ」なんて言いやがってさ。
ホント意味がわかんないんだよね。
彼が恐る恐るわたしのシャツのボタンを一つずつ外す。
時間をかけるのは、わたしに拒絶されないかを確かめてるからだろう。
わたしは彼の好きにさせた。
露になっていくわたしの肉体。
だんだんとぎらついたオスの目になっていくのを観察し、これからどうなるんだろう? そんな興味が勝っていく。
ああ、肉体はやっぱり女なんだと分からせられた。
ガラス細工を扱うように、彼は丁寧にわたしを扱った。
一つ一つの愛撫に時間をかけ、絶対にわたしに嫌悪感を与えない様にと。
わたしからは女の蕩けた嬌声が漏れ、今まで性欲が無いなんて思ってたのは何だったのかって思ったよ。
そうしてわたしは最後まで教授に抱かれた。
申し訳ないけど男性器を口に含むのだけは無理だったけどね。
それでもわたしは気持ちよくて、結局3回彼がわたしの中で果てるまでした。
終わった後教授は気まずそうにしていたけれど、わたしはこれからも変わらないよ。
今まで同様、ここに入り浸るし、貴方と議論しては喧嘩したりするでしょうってハッキリ言った。
すると彼は笑ってた。苦笑いかな? そう言う君を好ましく思うと言ってた。
まあその事で彼と結婚とかは一切思ってなかったしね実際。
彼も結婚願望は無かったと思う。
それから何度かセックスをした。
単純に気持ちよかったからだ。
他の男は無理だけど、教授なら受け入れられたからね。
そうなると遠慮もなくて、今まで押し込めて来た性欲があふれ出したのかも。
自慰もするようになったしね。
結果、妊娠したんだ。
それで院に進むことをやめたのさ。
彼は盛大に狼狽えていたな。
前途ある若者の人生を! とかって。
わたしはそれを鼻で笑った。
そして言ってやった「やったぜ」ってね。
だって教授としなければ、わたしは完全にシングルとして人生設計をしていたしね。
妊娠は未知なるものだけど、素直に嬉しかったんだよ。
前世でも子供は未経験だったしさ。
人間の本能なんだろう。血を分けた子供が生まれる、その嬉しさがやってきた。
もしあれなら堕胎も止めないって錯乱した彼に平手打ちし、責任取れとは言わないけど、認知だけはしてと言った。
もうね、子供がいるって知った瞬間から母性がドバドバなんですわ。
堕胎? 貴様は敵か? って。産後の母猫が攻撃的になるでしょ? あんな感じだったね。
そしたら教授は漸く落ち着いたみたいで、私の子供を授かってくれてありがとうって泣いてた。
で、苗字が桧山になったのさ。
ちゃんと他界された奥様のお墓にも行って報告したよ。
教授は「すまんな、この人を幸せにする」って。
わたしは「この人と幸せになる事をお許しください」って。
二人でペコペコお墓に頭を下げてるシーンは、天国の奥様も苦笑いだったろうな。
ほんとに結婚はしなくてもいいって言ったんだけど、もし明日自分が死んだら何も残せてやれないからって彼は珍しく一切折れずに意見を通した。
まあ民法上はそうだね。内縁関係でも相続されない。
だから意地を張る意味もないかなってさ。
でもさ、縁起が悪いんだよそう言う事言うのはさ……。
よく死亡フラグとか言うけれど、笑えないよ。
その日以降わたしは彼の家に転がり込んで同居して。
長野にいる両親がすっ飛んできて「このバカ娘が迷惑かけて……」とか教授に土下座してさ。
いや確かに性自認の件では親に迷惑かけてきたけどさぁ……。
でも両親も孫の存在に喜んでくれた。
実家は高原野菜を作ってる農家だけど、子供が生まれて以降は隔週で上京してきたもの。
教授もさ、今までのインテリキャラはどこ行った!? って程に人が変わって、上野公園の横に新築マンションが出来て、そこに2LDKの部屋を購入して、そっちに本を全部移して、神田の家を子育てにプラスになるようにリフォームしたんだよ。
母親として嬉しい反面、あの学者の夢を全部詰め込んだ家が消えるのが切なかった……。
ちなみに家に残す蔵書の数で離婚騒動に発展したけどね。
わたしはヘビーで読みたい本が300冊くらいあって。
でも教授は家に段差があるのはよくないから、本棚は全部取り払いたいって。
仲裁に入った両親が夫婦どっちにも呆れてたけど。
大きな子供が二人いるみたいだってさ。
でもさ、全部過去形なんだよね。
菫がさ、三歳になった頃。
教授は死んでしまった。
子煩悩の親バカになって、それでキャラがやらかくなって。
彼のゼミは学生たちが大量に集まってくるようになって。
そんな矢先に、あっさり事故で死ぬんだもんなあ……。
ムカつくから籍を抜かない。一生桧山でいてやるんだ。
教授は身内が一人もいない。
だから余計にね。
でもなあ……今も男のつもりだけれど、凄い寂しいよ。
母子が一生暮らせるだけの準備をして死にやがって。
まるで死ぬのが分かってたみたいで腹が立つ。
けどね、あの人の子である菫の存在は大きかった。
掴まり立ちが出来る様になって、家のどこにでもひとりで行けるようになって。
言葉を覚えて、身体もどんどん成長して。
顔はわたし譲りだから将来安泰だろう。
でもタレ目なのは教授の目そのままで。
そして来年は小学校に入学だよ?
だからどうにか、今日もわたしは生きている。
この小さく愛しいあの人の娘と一緒に。
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