Day 24. 絶叫

 なんとなく行きつけになった近所の繁華街で、甘ったるいミルクティーと沈んだタピオカを咀嚼そしゃくしていたレオは、耳をつんざくような叫び声に文字通り跳び上がった。

「な……っ⁉︎」

 握っていたプラスチックカップを取り落としそうになって、慌てて両手で掴んで周囲を見渡す。だが、そんな彼にちらちらと怪訝そうな視線が送られただけで、いつもの雑踏と何も変わらなかった。


 ——ふむ、わらわ挑発さそいには乗らなかったくせにのう。


「金魚⁉︎ 何か知ってる?」

 早足で雑踏を抜けながら、腰のベルトに差していた団扇うちわを引き抜いて語りかける。ぴちゃんと涼やかな音とともに絵の中の金魚が跳ねて、くすくすと笑う声が届く。嫌な予感はますます強くなり焦燥が彼の胸を焼く。

「どこに行けばいい?」


 ——さあのう。


「教えないなら、この団扇ごと握りつぶすよ?」

 冷ややかな声に、ふるりと金魚が身を震わせる。静かな口調の中に潜む彼の本気が伝わったのだろう。だが、なおも金魚は口をつぐんだままだ。普段は話しかければここぞとばかりに、こちらがうんざりするくらい話が尽きないおしゃべりのくせに。

 それだけ状況が深刻なのだと気づいて、スマートフォンを取り出す。一刻の猶予もない。けれど、かけた妹のメッセージアプリも通話もどちらもオフラインだった。この国のネットワークは少なくとも都心のこのエリアではかなり安定しているはずなのに。

「金魚、どういうこと?」


 ——霊障れいしょう、という言葉があってな。どうやらそなたらの持つ機械とは相性が悪いらしい。


? それとも別のもの?」


 ——言うたであろ、妾の挑発には乗らなかったくせに、何かでらしい。あれはもう「成りかけ」ではない。積もり積もった憎悪に呑み込まれ、ただ還る場所を目指し、そしてぜる。


「爆ぜるって、爆発する⁉︎」


 ——あれの本質はくらき炎。こごった怒りが己を焼き尽くすまで消えぬであろうなあ。


 他人事のように言う金魚の声は、けれどどこかで痛ましさを含んでいるように聞こえた。


 ——大切な者たちを置き去りにして、そうして置き去りにされて。もう何も残ってはおらぬというに。己が意志ではなかったとはいえ、多くのものを手にかけたその自責の念と、気も狂うほどの苦痛と無念さと哀惜と、そして血筋に宿るあの刀の半端な守護があの者に呪いをかけた。


 金魚の話は半分も理解できなかったが、たかの身に何かが起きていること、そして彼が目指すのが、彼にゆかりのある古書店であろうことだけはわかったから、彼はとにかく駆け出す。


 繁華街を抜け、その店のある路地裏に入った瞬間、レオはぐらりと地面が揺れたような気がした。地震、という言葉が脳裏をよぎったが、それはただの目眩だったらしい。あたりに満ちた、息苦しいほどの異形の気配。燦々さんさんと日が射しているというのに薄暗く見え、普段ならそれなりに古本目当ての人々で賑わっているこの界隈に人っ子一人の影もない。

「大丈夫かえ?」

 直接脳裏に届く曖昧な声ではなく、耳を震わせる涼やかな響きに目を上げれば、長い艶やかな黒髪と、憂いを帯びた黒い瞳が見えた。

「何で……」

「さあ? 必要になる気がしたからかの」

 それだけ言って、彼の腕を掴むとそのまま着物の裾を捌いて軽やかに走り出す。その着物は初めて会った時と同じ、黒地に鮮やかな朱金が散っている。


 金魚に手を引かれるまま辿り着いた古書店の前は、さらに昏い気配が満ちていた。

「レオ‼︎」

 必死な声に目を向けると、店の入り口の前に妹が立っていた。相対しているのは茶色い着物に身を包んだ、もう見慣れたはずの男の、全く見慣れない姿だった。


 全身から、濃い煙のような暗赤色の光が立ち上っている。無精髭の生えたその横顔は、普段は飄々ひょうひょうとしているか、あるいは常にリナに優しげな眼差しを向けていたのに、今はただ虚ろな表情を浮かべている。


「リナ!」

 叫んで駆け寄ると、ゆらり、と男が操り人形のようにぎこちない動きでこちらに顔を向けた。その瞳は体から立ち上る陽炎よりも濃く、禍々まがまがしい深紅に染まっていた。

「一体何があったんだ?」

「わかんない。でも、ひまわりを見にいって、何かを思い出したみたい。そうしたら急にあんなふうになって」

 一言も発しないその姿は鷹生に違いないのに、気配とその眼差しが、もうのだと悟らずにはいられなかった。

 彼の菫色すみれいろの眼にははっきりと映る、異形としての本質。憎しみと悲しみに心を埋め尽くされ、人にしか見えないのに、人としてのかたちを失ってしまったモノ。


 彼らの怯えを感知したかのように、異形がニィっと笑う。獲物もくてきを見つけた昏いよろこびにうつろだった瞳が輝く。


 ——にくい、くるしい。ぜんぶ、もえてしまえ。おれがそうされたように。


 その手に昏い色の炎が宿る。音もないのに燃え盛るそれは、男の身を焼くことはないようだったが、その熱が離れていてさえ伝わってきた。もし投げつけられれば、この辺り一体が灰燼かいじんに帰してしまうほどの。


「鷹生、馬鹿なことをするな! ここはあんたが守りたかった場所だろう!」


 ——なにもない。だれもいない。ここはおれのかえりたかったところじゃない。


「だったら壊してもいいのか⁉︎ リナだっている、七生さんだって、カメだっている。みんなあんたとゆかりのある人たちだ。何もないわけがない!」

 彼の叫び声に、ほんの少し異形が怯む。何かを思い出そうとするように、中途半端に上げられた炎を宿した手が宙に浮く。ところが、そこに涼やかな、けれど妖しい声が割って入った。艶やかに、誘うように。

「何の何の、そなたの言う通り。ここにはそなたの大切な者たちはもうおらぬ。そなたが守りたかった者たちは皆逝ってしまった。その手を血に染めても守りたかったものはとうにこの地にはない」

「金魚⁉︎」

 声を上げたレオに構わず、金魚はただ鷹生を見つめたままあでやかに笑う。

「ここに在るはそなたやそなたの仲間たちの多くの犠牲の上に安穏と暮らしてきたものたちじゃ——憎かろう恨めしかろう? さあ、堪える必要などない。焼き尽くしてしまえ」

「お前、何を言って……!」

「馬鹿なこと言わないで! 鷹生はそんなことで恨んだりしない! 鷹生はちゃんと覚えてる。どれだけこの場所が大切だったか。どんなに大切に思っていたか。それだけじゃない、ちゃんと今でも人を大切にしたり愛したりすることを知ってる!」


 リナが今にも泣き出しそうに、それでも必死に叫んだ。異形があちらこちらに満ちたこの国で、不安を覚えていた彼女が穏やかに笑えるようになったのは、確かに目の前のこの男のおかげだった。人でさえなくても、何の縁もないのにこの国で彼女を守り、手を差し伸べてくれた。


「甘いのう。見やれあの姿を。あれがあの者の本質じゃ。炎に包まれ、全てを焼き尽くす。愛だの恋だの、そんなやわい想いが残っておるものか。さあ遠慮はいらぬ、焼き尽くせ」


 歌うように言った金魚の声に力を得たように、男の手に宿った炎が勢いを増す。ごう、と熱波が吹いて、手だけでなくその全身から炎が舞い上がった。幻にすぎないはずのそれは確かに熱を持っていて、襲われれば彼らだけでなく古書店も無事では済まないだろう。

「リナ、逃げるぞ!」

「ダメ、逃げたらお店が燃えちゃう! そんなことになったら鷹生も悲しむ!」

 切実な声に、ほんのわずかまた男が怯んだ。それを見てとって、妹が一歩前へと踏み出す。

「鷹生、そんなに苦しいなら私を焼いていい。一緒にいってあげるから、これ以上はもうやめて」

「リナ⁉︎ 馬鹿なことを言うな!」

「ごめん、レオ。でも、あの人は、私が見つけたから」


 そう言って、やけに綺麗に笑った妹は、いつの間にかきらりと光る何かを握っていた。白い木の柄の先にその場にそぐわないひどく清冽な光を放つ刃。それを見て、男が目を見開いた。


 ——それ、は。


「ごめんね。他に何か方法があればよかったんだけど」

 頬に柔らかい唇が触れる。いつもなら、そのまま引き寄せられるのに、伸ばした彼の手はすり抜けられて、リナは鷹生の胸に飛び込んでいった。


 と、思った瞬間、二人の間に黒と朱金の影がするりと割り込んだ。


「ほんに愚かな兄妹よのう」

 艶やかに笑った女の胸には妹が握っていた短刀が突き立てられていた。

「これで仕上げじゃ。借りるぞ、守り刀よ」

 言った瞬間、流れ出す赤い色と共に、強い水の気配があたりに満ちた。ざああっという大きな音を立てて、晴れていたはずの空から驟雨しゅううが降り注ぐ。

「そなたの無念も怨念も、全て流してしまいやれ」


 その言葉と共に、ふっと光が弾けた。目が眩むほどの真っ白な光の最中に、悪戯っぽく、それでもやけに優しく笑った顔が浮かぶ。


「金魚——深緋こきひ‼︎」


 叫んだ彼に、ようやっと覚えたか、愚か者め。そう笑った声を最後に全ては光と雨に呑まれてしまった。

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