Day 23. ひまわり

 しばらく続いていた雨季——こちらでは梅雨というのだという——のような不安定な天候もようやく落ち着き、またじりじりと照りつける太陽がいい加減、恨めしくなるような日々が続いている。


「そう言うなよ、長雨ながあめ続きよりはよっぽどいいだろ」


 今日も今日とて古書店の二階の部屋で、筆で何かを書きつけていた鷹生は、空と同じくらいからりとした声でリナに笑いかける。その顔には今は何の翳りもなく、ただおもしろそうに彼女を見つめている。あれ以来、大きな変化は起きていない。むしろざわつく影も姿を見せないから、リナもレオも穏やかな夏休みを満喫している状況だった。


「平穏な毎日、結構なことじゃねえか。何が不満なんだ?」

「別に不満とかじゃ、ないけど」

 口ごもった彼女に、鷹生は握っていた筆を置き、紙をまとめる。書かれている文字らしきものは流麗で美しいが、今だに日本語については簡単な読み書きですらおぼつかないリナにとっては、何が書かれているのかはさっぱりわからない。

朝顔あさがおはす百日紅さるすべり撫子なでしこ露草つゆくさ桔梗ききょう、それに向日葵ひまわり

 表情から疑問を読み取ったのか、長い人差し指で指差しながら、一つ一つを読み上げる。呪文のように聞こえたが、最後の一つだけはリナにも聞き覚えがあった。

「ヒマワリ?」

「知ってるのか?」

「うん、カイが——兄が好きでうちの庭に植えてた」

 太陽の花ソロスとも言うのだと母が教えてくれて、なるほどぴったりだと思ったのを覚えていた。鮮やかな黄色の大輪の花。短い夏の間に、それでも力強く咲く花々はまるで夏のシンボルのようだった。


 急に故郷の夏が懐かしく思えて、ぎゅっと胸が締めつけられた。夏休みも残すところあと一週間ほど。そう気づいてさらに心臓がどくんと不規則な鼓動を打つ。いずれにしても、七月の終わりには帰らなければならないのだ。


「ああ、そろそろ帰る時期か」

 鷹生は聡い。容易に表情を読み取って、彼女の不安も焦燥もあっさりと看破してしまう。そうして、それさえも包み込むように笑って立ち上がる。

「散歩にでも行くか。ちょいと見せたいものもあるしな」

「鷹生、私は」

「いいからいいから。まあ俺に任せとけよ。伊達に年は食ってねえ」

 からからと笑って、懐手をしたまま階段を下りていってしまう。そうなれば、リナももう後に続くよりほかなかった。


 外に出ると同時に麦わら帽子をかぶせられる。すんなりとワンピースから伸びた肩にも柔らかい布がかけられた。肌触りの良いストールのようなそれは、薄いけれどぎらつく日差しを確かに和らげてくれる。

「嬢ちゃんの肌、雪みたいに真っ白だからな。真っ昼間にそのまま出たら焼けちまうだろう」

「普段は日焼け止め塗ってるから大丈夫だよ」

今は・・便利なものがあるもんだな」

 どうやら年代ものらしい白いその布には薄く丸い形の模様が染め込まれている。黄色味を帯びたそれが、先ほど話題に上がったひまわりだと気づいたのは、鷹生に連れられて、少し離れた公園の花壇の前に立った時だった。

 すっと力強く伸びた茎の高さは彼女の背丈をゆうに超えている。いくつも並んだそれは、まるで大きな壁か、迷路のようだった。

「随分立派に咲いてんなあ」

 鮮やかな黄色い花びらが、茶色い真ん中の部分をぐるりと囲んでいる。照りつける太陽の下でもすっくとまっすぐに立っているそれらは、この暑さの中でも生き抜く命の力強さを感じさせた。

「この辺りには、ひまわり畑があったんだ。実をとったり、あるいは畑を休ませて回復させたりな。子供らにとってはちょっとしたおやつにもなるし、いい遊び場だったんだが」


 ——まあ、全部焼けちまったらしいがな。


 そう言った鷹生の横顔に、また淡く淀んだ色が滲む。

「俺はこういう風景を守りたかった。人一人にできることなんて限られてるのはわかってた。それでも、どうせ行かなきゃならねえのなら、せめて馬鹿みたいな犠牲を限りなく減らして、さっさと終わらせたかった。なのに——」

 呟きながら、鷹生はひまわりに手を伸ばす。

「あっちにもあったんだ。こんなひまわり畑が。その前で、大の大人が死にたくないって泣いてた。泣くことさえできずに笑ってるやつもいた。それだけじゃない、小さな子供も……無惨に。いくら止めようとしても、一兵卒の身でできることなんてありゃあしなかった。逆に非国民だ反逆者だと、捕らえられて、挙句の果てに——」

 ぴたりと、鷹生が口をつぐむ。大きく見開かれた黒い瞳がもっと禍々しい色に染まる。

「鷹生、何か……思い出したの?」

 彼女の問いに答える声はない。ただ、炎を映したかのような赤錆びた色が、絶望を浮かべた瞳を侵食していく。

 明るい太陽の下、鮮やかなひまわりの花々が咲くこの公園で、鷹生はけれどもうそれらを見ていなかった。うるさいほどのセミの声さえもぴたりと止んで、息を潜めている。


 ——そうして、その変化は唐突に起こった。

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