Day 22. メッセージ

 口の端を上げ、少し癖のある笑みを浮かべた顔はもう見慣れてしまったいつものそれで、夢にうなされていた様子は微塵もない。それでも、初めて会った時にはなかった、身を包む微かに淀むような色は少しずつ濃さを増していた。だから、このままではいられないのだ、とリナは確信してしまう。


 群青色の着物に身を包んだ端正な顔をもう一度引き寄せる。真っ直ぐに視線を合わせると、淀む色がわずかに薄くなる。人ではないのに、人に限りなく近い。触れる肌の温かさも、戸惑いの浮かぶ眼も。

 薄く開いた唇が、何かを言いかけて、けれど言葉にならずに大きな手が、先ほどと同じように頬に触れる。少し傾けられた顔がさらに近づいて、何をしようとしているかもうわかっていたけれど、どうすればいいのかはわからなかった。


 初めは探るように柔らかく軽く、それから遠慮が消えて、深く。頬を撫でる手と深く刻み込まれるような感触に目眩がして、気がつけば間近にある顔の向こうに天井が見えた。

「たか……」

「何してんの?」

 だん、と珍しく乱雑な足音と冷ややかな声に目を向けると、レオが腕組みをして、険しい顔でこちらを見下ろしていた。細い金の眉がめいいっぱい顰められ、菫色の瞳には明らかな怒りが浮かんでいる。珍しい兄の表情に慌てて起き上がると、たかがふっと笑う気配がした。

「過保護だな」

「過保護じゃない。見境もなく手を出すようなけだものにリナはやれない」

「ひでえ言われようだなあ」

 苦笑した鷹生に、けれどレオは険しい顔を崩さない。部屋へと足を踏み入れると彼女の腕を掴んで引き寄せた。気づかないうちに冷えていた体に温もりが伝わってくる。

「いつか僕がこの手を離す時が来るとしたら、それはちゃんとリナが必要として、リナを必要とする相手が現れた時だけだから」


 今のあんたみたいなやつには、やれない。


 きっぱりとそんな強い言葉を残し、彼女の腕を引いて部屋を出る。そのまま階段を下りて外へと出ると、白んだ空はもう青さを取り戻し始めていて、近くの木陰からセミの声が聞こえてきた。

 レオは掴んでいた腕を離し、代わりに手を握る。子供の頃からずっとそうしていたように。そのまま近くのコンビニまで歩いていって、迷いなくジャスミンティーとアイスクリームを二つ買った。


 近くの公園のベンチに座り、アイスクリーム——彼女の好きなラムレーズンとスプーンを差し出してくる。兄はグリーンティー。ずっと小さな頃から二人で行動してきたけれど、アイスの好みだけはずっと違ったままだ。蓋を開けて、スプーンで掬って一口含むと甘くて芳醇なレーズンとバニラの香りが広がる。

「美味しい」

「だね。こっちも食べる?」

「うん」

 一口分けてもらったグリーンのアイスは、甘いのか苦いのかよくわからない。だがそれがいいのだとレオはようやく屈託なく笑う。それから、ベンチの背もたれに背を預け、頭上いっぱいに伸びた枝を見上げながらぽつりと呟いた。

「ダメだよ、リナ」

「……何が?」

「本当に助けたいなら、ちゃんとしないと」

 どきりと心臓が跳ねてレオを見たけれど、彼の視線は頭上に向けられたままだ。淡い金色の髪があるかなきかの風にふわりと揺れて、それからようやくリナと同じ菫色が、真っ直ぐに彼女の方を見る。

「あれは悪いモノじゃない。でも、それはあいつがそう在ろうとしているからぎりぎり保っているだけで、もし自分で嵌めたそのかせが外れてしまったら、きっと取り返しのつかないことになる」

 いつになく真剣な眼差しに、心臓がさらにどくんと大きな音を立て、早鐘を打ち始める。手が震えそうになるのをぎゅっと握り込んで何とか堪えようとすると、そっと温かい手が包み込むように触れた。

「あいつはリナが思ってるよりずっと危険だ。それでも僕と一緒にこのまま逃げてはくれないんでしょ?」


 じっと見つめてくる菫色に浮かぶ光は変わらないようでいて、変わっている。ただ二人ではしゃいで遊んでいたもっとずっと小さい頃にはなかった、リナを気づかい、守ろうとしてくれる意志がそこには確かにあった。本来能天気なはずの兄のそんな表情は、少しの厳しさと、何よりも深い愛情とを示している。

 そういうものに包まれてきたからこそ、彼女はどんな恐ろしいものに出会っても、心の底から恐ろしいと感じることはないのだ。


「だって、見つけちゃったんだもん」


 彼女よりよく視えるはずのこの兄ではなく。彼女が見つけ、そして出会ってしまった。ほんの一時、夏を過ごすためだけにやってきたはずの、東の果てのこの国で。


「もう、しょうがないなあ」

 ふっと表情を緩めて能天気に笑ったレオに、リナも笑みを返した。言いたいこともよく理解できたので、残ったアイスクリームを口に運びながら、鷹生の変化を改めて考える。ただ庇護してくれるだけだった男が、急に彼女にそれまでとは異なる触れ方をしてきている。

 それは彼女が感じている好意を映したものではありながらも、きっとそれだけではない。

 ふとレオがリナの頬を両手で包んであおのかせる。心の底まで見通そうとでもするように、真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込み、それからほっと息を吐いた。

「うん、綺麗」

「……何、今さら」

「まあ僕らにとっては当たり前だけど、多分あいつにとってはそうじゃないから」

 一人で何かを納得してうんうん頷く兄に彼女が顔を顰めると、肩を竦めてくしゃりと彼女の柔らかい髪を撫でる。

「リナならきっと大丈夫だよ。ただ、自分をしっかりもって。

 首を傾げた彼女に、兄は優しく頬に手を滑らせて、ふと表情を改める。

「リナは気がついていないかもしれないけど、僕よりよく聴こえてるから。だからちゃんと聴いてあげるといいと思う」

「……何を?」

「本当に、あいつが何を思い出さなきゃいけないのかを」


 ——存在だけが異常に確かなのに、どこか危ういのは欠けている記憶があるから。


「思い出すことが必ずしもいいことじゃない。でもきっと不安定なままではつけこまれてしまうから。リナがちゃんと、見つけてあげて」


 レオの言葉はどこまでも曖昧だったけれど、それでもリナにはきちんと伝わった。飄々としていて、優しくて、けれど危うい熱を持つあの人を、この世に繋ぎ止めている「何か」。それを見極めて、そうしてその先は——。


「それは後で考えよう。恋なんて後先考えたらできないよ」

「こ、恋とかじゃないし!」

「え、違うの?」


 からかうように笑う兄の、けれど本当に彼女を想う言葉はもう確かに伝わっていたから、その首に抱きついて、ただTackありがとうと耳元で囁くと、ぎゅっと強く抱き返された。

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