Day 21. 短夜

 目を閉じると必ず浮かんでくるのはくらい赤。目の裏で揺らめくそれが炎だと気づくまでにしばらくかかった。熱さは感じない。それもそのはず、すでに彼は人ではなく、苦痛も快楽も感じることなどないはずなのだから。


 ぎゅっと拳を握って、また開く。思い通りに動くことが逆に不自然な気がして、その違和感がかつての痛みを鮮明に蘇らせた。


 ——もう、解放してくれ。


 縛り上げられ、血の通わなくなった指先はとうに感覚がない。あるいはもう壊死えしして、腐り落ちているのかもしれなかった。容赦のない痛みから逃れるために、意識の全てを内側に閉じ込めて夢想に耽る。

 そんな時、決まって思い出すのは、故郷の古い紙の匂いに包まれた部屋だった。小さな明かり取りしかない店の中は、常に薄暗かった。けれどそこは穏やかで、どこよりも落ち着く場所でもあった。大切なものたちと、少し変わった生き物と。


 本来なら人語を話すはずもない尖った顎先と、黒目がちな瞳を思い出して、いつぶりなのか口元が笑みの形に綻んだ。だが途端、意識の向こう側で鈍い音が響く。いくら閉じ込めても衝撃は完全には遮断できない。

 額から流れ出すそれが何かを意識しないように、記憶の中にある穏やかな光景を思い出して深く沈む。それでも、ぱちぱちと何かがぜる音は嫌でも意識をそちらに向けさせた。

 ゆらりゆらりと震えるように燃え上がるその色は、禍々しいのに恐ろしいほど美しい。


 ——さようさよう、美しかろう、憎かろう。


 歌うような声が響く。聞いたことのないその声は、優しげに彼を誘う。


 ——全てを忘れ、閉じ込めねばならなかったほどの苦難苦痛。さぞかし辛かったろう。思い出しや、身を焼くその炎。心を埋め尽くす憎悪と共に。


 必要ない、と彼は唇を噛み締める。もう忘れるのだ。憎しみも悲しみも、全ては遠い過去のこと。


 ——否々いないな、因果は巡る。そなたの身の内に宿るその炎、さぞかし美しく爆ぜるであろ。もう目を背けずともよい。時は満ちた。積もり積もった憎悪をかてに、さあ——。


 うるさい、と彼が声を上げようとしたその時、ふっと辺りに光が満ちた。きらきらとした淡い金色は月の光によく似ている。真っ白な手が伸びてきて、無精髭の伸びた彼の頬を柔らかく撫でる。

「夢だよ、全部」

 透き通るようなその声が、どこか不思議な響きがするのは母語がこの国の言葉でないせいだろうか。瞬きをして目を上げると、鮮やかな瞳がこちらを見つめていた。

 菖蒲あやめ竜胆りんどう桔梗ききょう紫苑しおん。あるいは藤か。思いつく限りの近しい色の花の名を浮かべてみても、どれもしっくりこない。もっと繊細に透き通ったそれは、たった一度、幼い日に河原で見つけた紫水晶アメシストか、あるいは異教の祈り舎で見た、光を通して淡く光る、着色硝子ステンドグラスか。

 その色を見つめているうちに、じくじくと胸の奥にくすぶる嫌な熱がすぅっと引いていく。惹きつけられるままに、頬に触れた手を握り、顔を寄せる。ほんのわずか、身の内にまだ残る行き場のない熱が触れた箇所から溶けるように消えていった。それでもなお、何かが名残惜しいような気がして、目を閉じ、もう少しだけ深く触れる。

 驚いたように相手がびくりと震えて、けれど慣れないせいか、離れ方さえわからぬ風情にふっと口の端だけで笑って手を離す。


 気がつけば、窓枠に寄りかかってうつらうつらとしていたらしい。膝の上に乗るようにして覗き込んでいた顔は、真っ赤に染まっていた。

「悪い、寝ぼけた」

「——!」

 異国の言葉らしきそれは聞き取れなかったが、おそらく罵倒の言葉であろうことだけは伝わってきた。くつくつと笑った彼に、相手がますます頬を膨らませてそっぽを向く。まだ幼さの残るものの、十分に美しいその横顔に寸の間見惚れ、それから外を眺めると、もう夜は明け空は白みかけていた。


 日の光を受けて影さえ落ちる己が身の確かさを、握りしめた細い手首から伝わる熱が補強する。人ではないが、それ以外のモノでもない。


 今は、まだ——。

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