Day 17. その名前

 スッと背筋を伸ばして筆で何やらしたためている姿は、ある種の古い絵のようだ。とりたてて眉目秀麗というわけではないが、それなりに端正な顔立ちと静謐せいひつな雰囲気は、同性のレオから見ても何かしら目を惹かれるものがあった。だが、それだけではない。淡くにじんで見える仄暗い色に微かに眉根を寄せた彼に、つ、と気づいたように男が視線を向けてくる。


「なんだ坊主、お前さんも書いてみたいのか?」


 ニッと笑った鷹生の顔は、もうそれまでの静けさもくらい色も押し隠してからりと明るい。リナに視線を向ければ、じっと男を見つめる視線は、他者に向けるものよりは温度が高いが、それでもレオが普段心配するような、熱に浮かされているような類のものでもない。恋に恋するような妹の、珍しく真剣なそんな表情にじわりと胸の奥が騒いだけれど、彼にどうこうできるようなことでもなかったから、ただ肩を竦める。

「いい。ちょっと出かけてくる。リナは?」

「私はいい」

「そう? 熱は?」

「もう下がったと思う」

 そう答えたリナの額に彼が手を伸ばすより早く、大きな手が彼女の髪をかき上げて触れる。それからするりと頬に滑り降りてきたそれに、妹がほんの少し心地よさげに目を細める。

「まだちょっと高いな。布団敷いてやろうか?」

「平気。ここで涼んでる方が楽」

「そうか、麦茶でも持ってきてやるからまあ休んでな」

 言って、男は階段を下りていく。今度こそ妹の額に手を伸ばすと、思ったより熱い。

「リナ、当てられてない?」

「そう見える?」

「わかんないけど、リナが不快じゃないならいい。そんなに危険そうには見えないし」

 まだ、とは心の中で呟いておく。


 彼らがいるのはとある古書店の二階だった。何がどうしてそうなったのかはよくわからないが、リナが連れてきたこの店にゆかりのあるらしい男の伝手つてで、その一部屋を夏休みの終わりまで間借りすることになった。両親がとってくれたホテルの期限が迫っていたこともあり、帰国するのも一つの選択肢だったが、両親は構わないと言うし、何よりリナが離れがたいようだったので。

「あいつが気になる?」

「……そういうんじゃなくて」

「違うの?」

 足りない言葉は暗黙のうちにお互いに補い合って、それで通じてしまう。後の曖昧な部分はリナ自身もよくわかっていないのかもしれなかったから、くしゃりとその頭を撫でていつも通り頬に触れてから、団扇を持って階段を下りる。途中ですれ違った鷹生に出かける旨を伝えると、そうかと頷いてそのまま階段を上がっていってしまった。


 ジージーという蝉の声が響く、焼けるように暑い空の下、レオはさてどうしたものかと考える。特に用事があったわけではない。なんとなく、リナとあの男がいる空間が気詰まりだったのだと出てきてから気づいてしまう。


 ——嫉妬かえ。よきかな、よきかな。


「違う。何でもかんでも自分の都合のいいように解釈しないでよ」

 ぴちゃんと楽しげに団扇うちわの中で跳ねた金魚に眉根を寄せてそう告げる。時折優しげな態度を見せるものの、その本質は魔性だ。人を惑わし、何より人の昏い感情をかてとする。

 くつくつと笑う気配にレオはうんざりしつつ、ぱたぱたとその団扇をあおぎながら、近くの繁華街まで歩いていく。何やら行列のできている店を覗き込んでみれば、冷たい飲み物の店らしい。並んで買うと、ひんやり冷たいミルクティーに丸いゼリーのようなものがたくさん沈んでいた。

 太いストローを咥えながら、喧騒を離れたくて小さな公園まで歩いていく。暑い最中だからか他に人影はなかった。レオは、その端にある一際大きな木を見つけて根元に腰を下ろした。


美味びみかえ?』

「これ? 甘くてまあ美味しいかな。飲んでみる?」

『どれ、ご相伴に預かるか』


 すぅっと冷たい風が吹いて、今日は紫紺の浴衣に身を包んだ艶やかな姿が現れる。さすがに地面に腰を下ろさせるのはためらわれて、ふと見上げた木が登りやすそうなことに気づいた。

「ちょっと持ってて」

 プラスチックのカップを預けると、するりと低い枝に手をかけて、すぐ脇の太い枝にまたがる。ちょうど三叉の隙間を見つけてカップを受け取りそこに押し込むと、今度は相手に向けて手を伸ばした。

「なんじゃ?」

「登っておいでよ。こっちの方が涼しいよ」

 そう言って手招きしたけれど、相手は呆れたように目を丸くした。けれどくすりと笑って、そのまま彼の手は取らず、ふっとその姿がかき消えたかと思うと隣に現れた。

「……なるほど、その手があったか」

「そなたは意外と抜けておるのう」

 軽やかに笑う顔はからかいを含んではいるが、翳りがない。肩を竦めてカップを差し出すと、素直にストローを赤い唇に含んだ。こくり、と喉が動く様子がやけに艶かしい。

「妙な噛み心地じゃが、こんにゃくに近いかの」

「コンニャク?」

 あいにくと食べたことのないものには理解が及ばない。相手もそれ以上説明する気にはならなかったのか、二口三口と吸い上げてから、カップを彼の手に戻した。それからまた意味深な笑みを浮かべる。


「そなたあれをどう見た?」

「あれって、リナの連れてきた男? 別に悪いものって感じじゃなかったけど」

「本当かえ?」

 じっと覗き込んできた真っ黒な瞳は、笑みを含んだ顔とは裏腹にひどく真摯な光を浮かべていた。淡く滲んだ淀む色が脳裏に蘇る。あれを視た時に感じた不穏さのその名前を、レオは確かに知っている気がしていた。

「あれは『成りかけ』じゃ」

「なりかけ?」

「しかも本人も自覚しておらぬからたちが悪い」

 優美な眉を微かに顰めてそう言ってから、彼女は唇に指先を当て、艶やかな唇を綻ばせる。

「まあ、わらわにとっては余興が増えるだけじゃがの」

 その言葉が、とってつけたように思えたから、レオが思わずくすりと笑うと今度ははっきりと不機嫌そうに眉根を寄せる。

「別にそなたの心配などしておらぬ」

「そんなこと言ってないよ。でも優しいね、金魚」

「何を……! 大体、妾をそんな無粋な呼び名で呼ぶでない。妾には深緋こきひというみやびな名があるのじゃ」

 彼の手のひらに何か複雑な線を書きながら憤慨したように言う金魚はやけに可愛く見えて、吹き出しながら顔を寄せる。

「ふうん、名前って日本では大切なものだって聞いたよ。だから教えてくれないのかと思った」

 しばらく柔らかい唇の感触を楽しんで、そうして離れてから笑うと金魚はぷいと子供のように視線を逸らす。

「なるほど、だからそなたは妾に名も教えぬのか」

「え? 言ってなかったっけ?」

「知らぬ」

「知りたい?」

「知らぬ!」


 頬を膨らませたその顎を捉えて真っ直ぐに見つめる。真っ黒な瞳が彼の顔を映して、菫色に囚われたように微かに揺れる。その動揺をどう理解したものかと考えながら、気がつけばもう口をついて出ていた。

「レオだよ」

「——真名は?」

「真名って漢字?」

 こくりと頷いて、試すようにこちらを見つめる眼差しに、彼はほんの少しだけ考えて、けれど結局ふっと軽く笑って相手の手をとる。

怜桜れおだよ。母さんが日本の桜が好きで、どうしてもこれがいいって父さんに頼んだんだって。家族以外、ほとんど知ってる人はいないけどね」

「なぜ教え——」


 自分で訊いたくせに、驚いたように大きく見開いた目を片手で塞ぐ。そのまま顔を寄せて、それ以上の問いを封じてしまった。

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