Day 16. 錆び

 財布のない、それも人ですらない相手に請求するわけにもいかない。食事を済ませた後、リナが伝票を持ってレジに向かうと、店主が何やら怪訝そうな表情を向けてくる。

 未成年の、それもこの国ではあまり見かけない天然の淡い金の髪にすみれ色の瞳の少女が何やら怪しげな着物の男の支払いを請け負っていることに、事件性を嗅ぎつけられてしまったのかもしれない。


「鷹生、お財布見つかったら後でちゃんと払ってよ」

「おう、店に戻ったらな」


 くしゃくしゃと気兼ねのない感じで頭を撫でるのを見て、店主は首を傾げながらもそのまま特に何も言わずに会計を済ませてくれた。

「美味しかったです。ゴチソウサマでした」

「お、おう、そうかい。そりゃよかった」

 破顔した店主に、めいっぱいの愛想のいい笑顔を返し、鷹生の腕を引いてそそくさと店を出る。外はもう日が沈みきっていた。周囲の街灯が明るいし、何より空にはぽかりと大きな満月が浮かんでいて、空は黒というよりは故国の夜に似た、薄青い紺色に見えた。


 ざわ、ざわ、と街灯の届かない暗がりで影がうごめく気配がする。隣を見上げると、懐手をしたまま鷹生が口の端を上げて笑って、だん、とまた足を踏み鳴らした。ざざっと何かが引いていく音がして、しん、と辺りが静まり返る。遠くに車が走る音だけが響いて、ようやく当たり前の日常が戻ってきたように感じた。隣には非日常そのものな存在が立ってはいるのだけれど。

「さて、帰るか」

「え、さっきのお店に行くんじゃないの?」

「もう夜も更けてきたし、嬢ちゃんをいつまでも連れ回すわけにもいかんだろう」

「まだ平気だよ。子供じゃないし」

「子供だろう」

 ふっと笑った顔は面白がる様子だった。髭はあるものの、そうして見れば意外と若い印象だ。七生の曾祖父とのことだが、そういえば姿が若いのは、なのだろう。

「鷹生って何歳?」

「さあなあ、百歳かそこらってところか?」

「じゃなくて、今の見た目」

「うん? 鏡がねえんでわからねえが、時のままなら二十四だな」

「若っ」

 リナと八つしか変わらない。何があったのか、と思わず出そうになった問いを慌てて口をつぐんで閉じ込める。出征した、と言っていたからには戦地で命を落とし、帰らぬ人となったのだろう。その記憶が、語りたいような類の話であるはずがない。

「よしよし、嬢ちゃんはいい子だな。いくさの話なんてしなくて済むならその方がいい」

 懐から手を出して、子供をあやすように先ほどよりはよほど柔らかくリナの頭を撫でる。世界中で起きている悲劇は決して過去だけのものではないけれど、鷹生にその現実を突きつけても仕方がない気がしていた。


 言葉にはしなかった想いを、それでも感じとったのか、鷹生はどこか遠い目をする。

「まあ、色々あるだろうが、俺にできるのはせいぜい届くところに手を伸ばして、守ってやるくらいだからなあ」

 その目に映っているのは、彼が置き去りにして、そして置き去りにされてしまった家族のことだろうか。

「行こう、鷹生」

「……あ?」

「この封筒の、何か大事な思い出があるんでしょう?」

「思い出っつうか、思い残しかもしれんなあ」

 苦く笑った顔は、本音を覗かせていて、だからそのまま手を掴んで歩き出す。真っ白な月に照らされた夜道に、人にしか思えない大きくて温かい手のおかげか、少しも怖さも寂しさも感じなかった。


 たどり着いた店はやはり暗いままだったけれど、二階には明かりが灯っている。ぐるりと見渡して裏口らしき扉と呼び鈴を見つけて鳴らすとややして低い声が返った。

『どちらさま?』

「夜遅くにすみません、ちょっとどうしても聞きたいことがあって」

 曖昧な言葉に、インターフォン越しに怪訝そうな沈黙が流れる。ぷつり、と通話が切れる音がして、肩を落とした彼女の前ですぐに扉が開いた。

「ご用件はなんですか?」

 小鳥のさえずりのような軽やかな声にハッと目をあげると、柔らかい茶色の髪に、若葉のような緑の瞳の少女がにこにことこちらを見上げている。と、後ろから少し慌てたような低い声が続く。

「こら、勝手に出るな」

「大丈夫ですよ、こちらはとっても綺麗なお嬢さんです。お月様みたいな髪ですねえ。それに目は春先のスミレみたいです」


 にこにこと邪気のない様子に思わず言葉を失ったが、その少女もどこか周囲の気配とブレるような不思議な感じがする。当たり前のように会話をしているが、どうやら人ではないようだ。


「何かご用とか?」

「ああ、ええと、この手紙を古本屋さんで見つけたんだけど、こちらの住所であってますか?」

 リナがそう言って、背の高い青年に封筒を手渡すと、宛名を見て少し目を丸くする。

「うちのじいさんだな。随分古そうな手紙だが……」

「もしかして、まだ息災か?」

 後ろからぬっと現れた着物姿の男に、青年は少し驚いたようだったが小さく横に首を振る。

「いや、十年ほど前に亡くなってる。まあ手先が器用で元気な人だったが、何か?」

「実はガキの頃に、守り刀を預けててな。お前さんのひい祖父じいさんが鍛冶師をしてたのは?」

「ああ、聞いたことがある。戦争でうんざりしてやめたって聞いたけど」

「なるほどなあ。あいつらしいや。息子の方も手先が器用でな。錆びついちまった先祖伝来の守り刀の話をしたら、ぜひ研がせて欲しいって。預けっぱなしになっちまってたからどうなったか知りたかったんだが……まあ夜分に悪かったな」

 そう言って踵を返しかけた鷹生に青年が声を掛ける。

「ちょっと待ってくれ。祖父さんが大事にしてたものなら、物置の方にあるかもしれない。見てみるだけ見てみよう」

「わたくしもお手伝いいたしますよ!」

 いやに張り切った少女の掛け声に、思わずその場にいた全員が吹き出したのだった。


 トーゴと名乗った青年に促されるまま、店の裏にある物置に入る。明かりをつけると、ところどころに埃が降り積もってはいるものの、きちんと整理や手入れがされている様子だった。

「確かこの辺りに……」

 ごそごそと奥の大きな棚——鷹生がいうには箪笥たんすというらしい——の引き出しから出てきたのは、一本の木の棒のようなものだった。

「これか?」

「おお、本当にあったのか?」

 目を丸くしてそれを受け取った鷹生は、何やらためうようだったが、ややして両手で握るとすっと引き抜いた。守り刀、と言っていたのは短剣のことだったらしい。だが——。

「なんだ、錆びついたまんまじゃねえか」

「預かってから随分経ってるようだから、その後また錆びちまったとかじゃないのか?」

 青年の問いに、鷹生は首を横に振る。そうして刀身を軽く撫でながら、不思議そうに首を傾げた。

「俺が預けたときのまんまだな。出征前には届けてくれるとそう言ってたんだが、忙しかったのかねえ」

「あんたが預けた……?」

 不用意な鷹生の言葉にトーゴが怪訝そうに眉根を寄せる。ややこしいことになるかもしれないとは思ったが、そばにいる少女もどう見ても人ではなかったから、ひとまずは静観することにした。


 と、ふぅっとひんやりとした風が首の辺りを撫でた気がした。反射的に鷹生の袖を掴むと、こちらを振り返り、それから驚いたように大きく目を見開いた。


『よう、遅かったなあ』


 視線の先には老人の姿。矍鑠かくしゃくとした様子だが、明らかに透けている。

「なんだこの怠け者が。ついでにあの世に行くのも忘れちまってんのか?」

『あんたに言われたかねえがな。ちょいとした心残りのせいで、ほんの少し縛られてるだけだ。話し終えたら綺麗さっぱり消えるよ』

「心残りってなあこれのことか?」

 鷹生が錆だらけの刀身を示すと、老人は呵々と笑う。

『いやあ、見事に錆だらけだなあ』

「笑い事じゃねえよ。結局出征にも間に合わねえし。約束を反故ほごにするなんざお前さんらしくもない」

『悪い悪い、あんたがあんまり縁起でもねえことを言うから、研いでやる気にもなれなくってなあ』

「縁起でもない?」

 リナが口を挟むと、透けている老人は肩を竦めて苦笑する。それからまた鷹生に視線を戻し、まじまじとその姿を見つめた。

『随分若ぇ姿だが、まあそういうことなんだな?』

「何だ、知らなかったのか?」

『あんたの遺骨も遺品も何一つ帰ってこなかった。ただ紙切れ一枚で知らされただけだ。どっかでしれっと生きてるんじゃねえかと一縷の望みもあったが、まあそうならあんたが戻ってこないはずはねえもんなあ』


 そうして老人が語ったのは、遠い昔話だった。鷹生が預けた守り刀は先祖伝来。けれど手入れを怠りすぎて錆まみれのそれを渡す時、鷹生は冗談混じりに語ったのだと言う。


「こいつは守り刀と言われちゃあいるが、命を守ってくれる代物じゃないらしい」

「じゃあなんだってんだ?」

「敵に捕えられたり、もうどうにもならねえって時に、自害して楽にしてくれるお守りなんだってよ。この錆はご先祖の血の名残かもしれねえなあ」

「なんだそりゃ、不吉にも程があるだろう」

「さあなあ。そんなことにならねえことを祈るが、この先何があるかはわからねえからな」


 おそらくは冗談半分だったのだろう。そう笑った顔はどこまでも明るくて、けれどもどうしようもなく不安になったのだという。それで研ぐ気になれなくて、ずっと引き出しの奥に仕舞い込んだままにしてしまった。


『あんたが本当に帰ってこなかった時、後悔したよ。研いで渡してやりゃあよかったってな。まあでもその姿を見ると、やっぱり渡さなくてよかったのか』

「さてな。そんなことじゃねえかとは思ってたが、お前さんがそんな冗談を真に受けちまってたのは申し訳ない」

 呆れたように笑って、それから鷹生は青年に目を向けた。その手に握られているのは彼の古い手紙だった。

「もう今となっちゃあ意味のない手紙だが、気が向いたら読んでやってくれ。その刀の由縁ゆえんが書いてある。錆びちまった本当の理由もな」


 じゃあな、とそれだけ言って鷹生は踵を返す。え、と呆気に取られたのは現在の家主の青年だけでなく、透けた老人も同じだったが鷹生はもう振り返らなかった。


 すたすたと早足で歩くその背を追う。ようやく洋菓子店が見えなくなった頃、ぴたりと鷹生が足を止めた。

「ああ、悪い。早かったか?」

「そんなこと、ないけど」

 何だかすっきりしない思いで見上げると、鷹生はほんの少しだけ苦く笑った。無意識になのか、着物の合わせから手を差し入れて、右肩のあたりを押さえる。ふと、覗いたその隙間から、引きれたような傷跡が見えた。


「あれがありゃあ、もっと早くに楽にはなれたかもしれねえが、先祖伝来の守り刀の悪評が高まるばかりだったかもなあ」


 冗談混じりにからりと笑った声は明るかったけれど、そこに滲む何かを確かに感じとってしまったから、彼女はただその体にぎゅっと抱きついた。

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