Day 15. なみなみ

 看板の下ろされた洋菓子店の二階は居住スペースのようだが、明かりは消えていて人の気配がない。どこかにでかけてしまっているのだろうか。リナはとりあえず出直すかと考えて、ふと、この後どうすべきか全く考えていなかったことに思い至った。


たか、どうするの?」

「どうって、何がだ?」

「手紙は届けられなかったし、もう消えちゃう?」

 一見、人にしか見えなくても、彼女の瞳はその異質さを捉えている。人ではないものが、そう長く人のそばで人らしく在ることは難しいだろう。男は髭の生えた顎を撫でながら、何やら考え込むようだったが不意にニッと破顔した。

「とりあえず、飯でも食いにいくか」

「はぁ?」

「この場所にはよくわからねえがえにしを感じる。出直してくりゃあ、何かしらに会える気がするが、少なくとも今じゃなさそうだ」

 なら、とりあえず腹ごなしでもしてくるのがいいだろうよ、と軽く笑って言うその顔はやたらと愛想が良くて、まるきり幽霊にも魔物にも見えなかった。


 その陽気さにされたのか、リナは尋ねられるままに周囲のレストランをスマートフォンで検索し、近くの蕎麦屋に入る。レオには新しい友人と一緒に夕飯を食べて帰ると連絡しておいた——嘘ではない、一応は、と何となく自分に言い訳をしながら。


 着物姿の男は実に自然に着こなしているせいか、あるいは時期的に浴衣の人も見かけるせいか、それほど人目を引いている様子はなかった。

「っていうか、鷹生、普通の人にも見えてる? 実は本当に人じゃないの?」

「さあ、どうだろうなあ。嬢ちゃんからはどう見える?」

 メニュー表を興味深げに眺めながら、ちらりとこちらに視線を寄越す。何かを試すように笑うその顔は、からかいまじりだが穏やかに優しい表情で、彼女の心臓がざわりとおかしな音を立てる。

 それでもまじまじと見つめれば、その姿はどこか淡いかげりを帯びていて、だからやはり人ではないのだとわかってしまう。

「……変なの」


 触れられるほどに実体を持つモノと出会ったことがないわけではない。けれど、そのたぐいのものは基本的にとても危険な存在で、そばにレオがいるときはすぐに察知して逃げ出すし、カイがいるときは彼の後ろに隠れてそれが立ち去るのをじっと息を潜めて待っていた。

 こんなふうに、まるきり人と変わらず会話をして、あまつさえ食事を共にするなど想像もつかなかった。


「まああんまり細かいことは気にしないが吉だぞ。ってありゃあ麦酒か?」

 男が指差したのは、隣のテーブルの客が持っているビールのジョッキだった。金色の上に、白い泡が溢れるぎりぎりいっぱいまで注がれている。

「ビール」

「美味そうだな。あれを一つと、それからざる蕎麦に、天ぷらもいいなあ」

 あいにくとメニューがほとんど読めない彼女に比べて、時代は違えど予測のつく範囲で鷹生は平然と注文を済まてしまう。ややして運ばれてきた大きなジョッキになみなみと注がれた金色に目を輝かせる様子は、少し子供じみてさえ見えた。

「苦ぇな」

 それでも美味しそうにごくごくと喉を鳴らす。本当にまるきりただの人間だ。テーブルに頬杖をついて首を傾げた彼女に、鷹生はくつくつと笑う。

「悪くないだろ、こういうのも」

「何が?」

「誰かと一緒に飯を食うってのも」

「何それ? いつも一人でいるわけじゃないよ」

「そうなのか? にしちゃあ、めいっぱい寂しい子猫みたいな顔してたが」

 ごく自然な感じで大きな手が伸びてきてすい、と柔らかく頬を撫でる。

「あんな顔してりゃあ、そりゃあ物の怪たちもさらいたくなるってもんだ」

 少し意地悪く、からかうように笑った顔は、それでもどこか甘くて心臓が跳ねる。相手は人ではないものだとわかっているのに。


「鷹生、モテた?」

「さあ、どうだろうな?」

 頬に触れていた手を離して口の端を上げて笑う顔はどこまでも余裕のそれで、未だ恋の一つも成就したことのない彼女にとっては、どうやら分の悪い相手らしい。ようやくそう気づいて頬を膨らませると、鷹生は呵呵と笑う。

「まあとりあえず、嬢ちゃんも食えよ。俺の奢りだ……と言いてえところだが、そういや財布がねえな」

「今頃気づいたの?」


 呆れたように言った彼女に、男は大仰に肩を竦めて、それから悪びれた風もなく、ひ孫の古書店にでもつけておいてくれ、と笑った。

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