Day 14. 幽暗

 夕闇が迫り始めた路地は、それでも影の気配が全くなかった。見上げた表情は少しくせのある笑みを浮かべてはいるが、リナの肩を抱いている手は力強い。そっと手を伸ばして触れてみると、普通に温かい。なんら人と変わらないその温度に戸惑いながら、教えられたばかりの名を呼んでみる。

「タカオ」

たか、だ」

 男はリナの手を取って、指で複雑な何かを書いた。それはきっと封筒の裏書にあるものと同じなのだろうが、到底書ける気はしなかった。

たか

 なるべく本人のアクセントに寄せて呼んでみると、満足げに頷いて頭を撫でられた。会ったばかりの他人にそんなことをされるのは、不快に感じてもおかしくないのに、なぜかやけに心地よく感じてしまって、首を傾げる。相手もわずかに苦笑した。


「不用心な嬢ちゃんだな。まあ人を見る目はあるってことか」

「ひと、なの?」

「いい質問だ」


 片手は懐手ふところでをしたまま、もう一方の手を顎に当てて少し考え込む風情になる。だが、ややしてもう一度ニッと笑うとくるりときびすを返して歩き出してしまう。

「え、ちょっと……」

「届けてくれるんだろう、その手紙」

 首だけで振り返った視線の先は、彼女が握っている手紙だった。汗で濡れないように慌ててシャツで手を拭って、それから早足で隣に並ぶ。

「これ、本当に鷹生が書いたの?」

「ああ、出征でかける前にちょいと伝えたいことがあったんだが、なかなか会う暇がなくてな。手紙に書いておけば、適当に出してくれるだろうと思ったが、まあそれどころじゃなかったんだろうなあ」

 軽い口調にも滲む後悔のかげりに、リナは思わず着物の袖を引く。本来なら触れることはおろか、話すことさえ稀なはずのその存在は、けれどいやにやっぱりはっきりとしている。

「ずっとこんな感じ?」

「いんや、お嬢ちゃんがくれるまでは全然。お前さんが触れて、それからなんか怪しい奴の呼び声に反応してんなと思ったらこうなってたな」

 この着物もいつのもんだかよくわからねえが。そう言って笑いながらも、袖を握った彼女の手を解き、代わりに子供にするように手を繋ぐ。ごつごつとした大きなその手は温かくて、やはり人以外の何にも思えなかった。


「嬢ちゃんはどっから来たんだ?」

「スウェーデン、ってわかる?」

「北の方の国だったか。冬が長くて、夏の間は日が沈まないとかいう」

「沈まなくはないよ。でも遅くまでずっと明るいのは、そう」

「あと極光ってのが見えるんだろ? 光の緞帳どんちょうみたいな七色の」

「オーロラのこと? 詳しいね。鷹生、ずいぶん昔の人なんじゃないの?」

 そう尋ねると、男は低く笑う。ほんの少し切なげな顔に、どきりと心臓が跳ねた。

「どれくらい経っちまったのかはわからんが、真新しかった封筒がそんだけヨレちまうくらいには時が過ぎてるんだろうなあ」


 あのカメは封筒の文字は先代かそのまた先代だかの筆跡だと言っていた。ならばあのカメが語っていた、古書店に居着くきっかけになったのがこの人なのだろう。だとすれば、かなり昔の話ではあろうが、あいにく彼女は日本の歴史に詳しくない。具体的な年代はわからないが、だいたい百年かそれくらい前だろうか。

「百年ってこたぁねえだろうが、まあだいぶ昔だな」

 とすると、届けにいっても何もねえかもしれねえなあ、とそう言う声は、それでもあまり寂しげではなかった。それ以上かける言葉がよくわからず、彼女はそのままやっぱり子供のように手を繋いで歩き続けた。


 ちょうど夕焼けが空を染める頃、二人は目的地の洋菓子店にたどり着いた。だが、店の扉には「CLOSED」のプレートがかかっている。

「なんだ休みか」

「もう閉店しちゃっただけかも」

「何にせよ、俺の知己がいる様子はなさそうだ」

 それほど落胆した風もなく、男は繋いでいた手を離して袖に両手を入れながら辺りを見回す。夕焼けに照らされて、その顔にはそれまでとは違った陰影がつくられている。


幽明ゆうめいさかいにする、ってのはこういうことなんだなあ」


 自分はもう幽暗こちら側だから、としみじみと言う声はからりと乾いていたけれど、それでもリナは微かに震える響きを聞き取ってしまった。胸を締めつけられるような衝動のままに、後ろからぎゅっと腕を回して抱きつくと、慌てたような声が上がる。

「お、おい、何だ急に……⁉︎」

 ずっと余裕の顔だった男の初めて見えた素の表情に、彼女は思わず頬を綻ばせた。ようやく本音に触れられた気がして。

 そう、リナに声をかけてくる影たちは、決まって同じ問いを投げかけてくる。


 ——寂しいのか、と。


 彼女が初めて寂しさを自覚したのは、上の兄が故国を離れた時。誰よりも暖かい光を持ったその人が、どれほど大切だったのか、いなくなるまで気づかなかった。

 同じ時代を生きていても、離れるだけでもこれほど寂しいのに、全てから置いていかれた男の寂しさはいかばかりだろうか。

「だから嬢ちゃんに見つかっちまったのか」

 口には出さない言葉を容易に読みとって、男は低く笑うと腹の辺りに回された彼女の手をぎゅっと握りしめる。


 不思議とその手はやっぱり温かかった。

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