Day 10. くらげ
真夏の海風を強く感じるのは、リナにとっては生まれて初めてだった。海面で多少冷やされた風は、潮の匂いが気にはなるものの、寄せては返す波の音と共に、暑気さえもどこか遠くへ運んでいってくれるような気がした。
「気持ちイイー!」
レオはと言えば、半袖短パンで海に突進している。水着の用意はなかったが、着替えも持ってきているし、全身濡れてもこの陽気ならあっという間に乾いてしまうだろう。
このところ、怪異続きで少し気が沈んでいた彼女だったが、明るい日差しと海風のおかげで今日ばかりは心も穏やかだ。過保護な兄から被せられた麦わら帽子とラッシュガードとスプレータイプの日焼け止めで、日焼け対策も万全である。
サンダルを脱いで波打ち際で足を浸す。波が寄せ、引いていく時に足元の砂もさらわれて、くすぐったいような感触が心地よい。そうして立ったまま、繰り返す波と風をぼんやり眺めていると、ふと、何かきらりと光るものが目に入った。
銀色の、ぷかぷかと浮かんでいたそれは、ゆらりゆらりと波に乗ってこちらに近づいてくる。近づいては遠ざかり、遠ざかってはまた近づいてくる。波に揺られるまま、何の意思も持たなそうなそれは、けれどやがて波打ち際まで押し出され、ついには濡れた浜辺の上でぺたりと広がった。
銀色のゼリーのようなそれには、暗い色の紐のようなものがついている。ゴミか何かだろうかとは思いつつ、銀色の部分がやけにきらきらと綺麗に見えたので、近づいて手を伸ばす。指先が銀色に触れる直前、のんびりとしているのによく通る声が彼女を呼び止めた。
「ちょっとお嬢さん、それを触ってはいけませんよ」
周囲を見渡したが、人影はない。何となくまたかと嫌な予感がして、兄たちの姿を探したけれど、海ではしゃぐ栗色と金色の頭は随分遠くに見えた。
「ああ、大丈夫ですよ。怪しいモノではございません」
ほらこっちこっち、と呼びかける声を探して目線を下げればちょこんと首を傾げたカメがいた。器用に両手——ヒレを地面について、ぺこりと頭を下げる。爬虫類のくせにやけにヒトじみた動きに警戒する気も失せて、その近くにしゃがみこむ。
「初めまして。わたくしはとある古書店にお世話になっているアオウミガメでして」
「アオウミガメって
「おや、お嬢さんもお詳しいとは嬉しい限り。そうなんです。お陰様で仲間たちの数も順調に増えつつございましてねえ」
何だか話が長くなりそうだ。大体喋るカメなど普通であるはずがない。とりあえず距離を置くかと立ち上がったとき、目の端に先ほど見た銀色の物体がぷかりと浮いてまたこちらに近づいてくる。
「ああ、それですが——」
「ちょっとカメさん、急にいなくなったら心配するでしょ!」
元気な声に目を向けると、長い黒髪を一つに結えた女の子がこちらに駆けてくるところだった。年の頃は同じくらいだろうか。
「ああ、フヅキさん。いえね、こちらのお嬢さんがそれに触れようと手を伸ばしていらっしゃったので慌てて止めに入った次第で」
「え?」
カメの視線の先にあったそれを見て、フヅキと呼ばれた少女も目を丸くする。
「え、やだカツオノエボシじゃない。大量発生してるとは聞いてたけど、本当にいるんだね……」
「カツオノ……?」
「カツオノエボシ。クラゲの仲間で、触手に強い毒を持ってるから絶対触っちゃダメだよ。っていうか普通に日本語通じてる? それにカメさんと会話しちゃってる?」
「ああ、こちらのお嬢さん、どうやら人には見えぬものが
黒目がちのつぶらな瞳でこちらを見上げるカメは、何やら一人でうんうん頷いている。少女はひょいとその体を抱き上げると、やれやれとため息をついた。
「それでもびっくりはするでしょ、普通」
「……日本のカメって普通にしゃべる、わけじゃないよね?」
「わたくしをそんじょそこらのカメと一緒にしていただいては困りますよ。そもそもこう見えて、
「とりあえずカツオノエボシの近くは危ないし、あっちでお茶でも飲みながら話そっか?」
少女が長くなりそうな口上を遮って少し困ったように笑う。その顔は、常ならぬ事態に戸惑う自分を気遣う色が明らかで、そしてふんわり暖かい光を感じた。ちょうど、彼女の兄がそうであるように。
「大丈夫、怪しいものではございませんとも。なにしろ
「ああもうほらカメさん喋り出すと長いから、ほら、行こ?」
にっこり笑った少女に連れられていった海辺のカフェで、彼女はアオウミガメと少女を繋ぐ、何とも不思議な古書店の縁を聞くことになったのだった。
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