Day 6. 筆
暇なら短冊でも書くか、とその家の家主がレオに差し出してきたのは、見慣れない道具だった。黒い何か平らな長方形の皿のようなものと、細い棒の先にふさふさしたものがついてる。
「ああ、習字を知らないか。これは
平たい硯に少し水を垂らし、黒い塊——墨を
静かに墨を磨る横顔は、シルバーフレームの眼鏡と無精髭のせいで少し尖った印象だが、その奥の目は意外と優しい。同居人の友人の弟妹、という何とも遠いつながりにもかかわらず、行くあてもさしてないレオとリナの一時的な預かり先となってくれたその人——
一見いかつく、とっつきにくい見た目にそぐわず、テキパキと作ってくれた昼食のオムライスも美味しかったし、押し付けがましくない程よい距離感で世話を焼いてくれる。聞けば彼自身にも弟妹がいるそうで、慣れているとのことだった。
見知らぬ異国で気付かぬうちに緊張していたらしい彼らからすれば、そうして気楽に過ごせる相手は貴重だった。リナに視線を向ければ、どこかぽうっとした顔で見つめている。
彼は思わず深いため息をつく。相変わらずこの双子の妹は男を見る目が圧倒的にない。否——見る目はなくはないのだが、どう見ても叶わない
それでも千秋は何も言わず、墨を磨り続けた。妹は途中で飽きてきたのか、大きな白いぬいぐるみなのかクッションなのかわからない物体を抱きしめてその場で横になった。すぐに穏やかな寝息が聞こえてくる。
このところ、落ち着いて眠れていなかったようだから、仕方がないのかもしれない。改めて辺りを探れば、この家の中は驚くほど影の気配がなかった。どこまでも穏やかで、開け放たれた窓からは、心地よい風が吹いている。
「
「太陽、か? 妹も同じようなことを言っていたな?」
「何でもないよ。それ、もう終わり?」
硯のへこんだ部分に流れた墨液は濃く、かいだことのない匂いがする。
「こうやって筆に墨をつけて、あとは好きに書けばいい」
「好きにって?」
差し出された短冊は、五枚。それぞれ色が違っている。
「だいたい願い事を書くな。書き終わったら庭の笹に吊るすか。七夕——七月七日が終われば、焚き上げる」
「へえ」
あまり気のない彼の返事に、千秋は軽く笑って立ち上がる。
「俺は向こうで仕事してるから、まあ適当に書いてみろ。何かあれば声をかけてくれていいし、飲み物は冷蔵庫に入っているから」
「ハーイ」
兄と同じかそれ以上に世話焼きな様子に肩をすくめながら軽い返事をして、それから短冊に向き直る。筆を持ってとりあえず何か書いてみるかと、墨液に筆先を浸した時、ふっと冷気が頬をかすめた。
『何だその筆の持ち方は。なってねえなあ』
急に聞こえた声に飛び上がるほど驚いて、パッと振り返るとニヤニヤ笑っている顔が見えた。半分透き通るような様子で、その顔は老人と言って差し支えないだろうほどに皺が多いが、表情のせいか妙に若々しい。そして、その顔には何となく見覚えがあった。
「チアキさんのお
『おお、なんでわかった?』
「だって、似てるし。ここ守られてる感じだから、悪いモノだったら入ってこれなそうだし」
『へえ、すげえな坊主』
「別に。お祖父さん、
『いんや、ちょっと盆には早いが様子を見にきただけだ』
言っている意味はよくわからなかったが、からりと笑っている顔は屈託がなかったし、妹もぐっすりと眠ったままだったから、とりあえず害はないと判断する。
「これ、何をどう書いたらいいかわかる?」
『そりゃあな。何か書きたいことでもあるのか? 坊主、日本語書けるのか?』
「……あんまり得意じゃない。お祖父さんは?」
尋ねると、顎に手を当ててほんの少し得意げに胸を張る。
『書は好きだったからな。代わりに書いてやろうか?』
「他の人に書いてもらっても願い事は叶うの?」
『さあ、どうだろうな?』
「じゃあ、自分で書く」
そう答えると、相手は少し目を丸くした。異国の生まれに見えた彼が、この風習にこだわるのが珍しかったのかもしれない。
千秋がそうしていた通り、正座をして背筋を伸ばす。紙を左手で押さえて筆を持ち、書き始めようとした時、ふっとまた冷気が背筋を伝った。半ば透けた手が、彼の手に重ねるように一緒に筆を握る。
『持ち方はこうだな。鉛筆じゃねえから立てて持つ。手伝ってやるから好きな言葉を書くといい』
意外と世話焼きなのは血筋らしい。くすりと笑った彼に、透けている老人も笑みを返した。それからもう一度背筋を伸ばし、思いのままに願いを記す。書き上がった願い事に、老人が首を傾げた。
『何だ、自分の願い事じゃないのか』
「これが僕の願い事だよ。一番特別だからね」
『にしても、意外とうまいじゃねえか」
とある二文字を指差して、老人がそればかりは本当に感心したように目を丸くしている。
「それだけは、どうしても上手に書けるようになりたくて練習したからね」
『お前さん、かわいい顔に似合わず執着系かい』
「ほっといてよ。お祖父さんだって出てきちゃうくらい気にかけてるんでしょ」
『俺のは老後の楽しみみたいなもんだ』
「何それ」
彼は短冊を持って立ち上がると、ちらりと妹に視線を向ける。まだぐっすり眠っていて起きる様子はない。それに、万が一目が覚めたとしても、彼女は日本語をほとんど読めないから、
庭に出て、一際大きな笹に白い紐を通した短冊をぶら下げる。柔らかい風に吹かれてひらりと舞ったその紙に書かれた願いはたった一つ。
『見せてやりゃあいいのに』
「リナは知らなくていいんだもん」
どれほど彼にとって彼女が特別で大切か、なんて。
「誰にも言わないでよ?」
そう念を押すと、珍しく怖くない
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