Day 5. 線香花火
じっとりと湿った空気は重いけれど、さらさらと流れる川からの風は心地よい。この国に来てから何やら天候についてぼやいてばかりだったが初めて少し気分が落ち着いたような気がする。そんなことを思いながらリナがふと空を見上げると、雲の切れ目に星が見えた。
「星、少ない……」
「そう? その分明るい星は見分けやすいよ」
そう言って、隣に立っている歳の離れた兄は空を指差す。
「ベガ、アルタイル……夏の大三角って、あと何だっけ?」
「デネブだろ」
呆れたように言った声の主は、先日トラックに水をかけられていた青年だった。何と兄の友人だったらしい。夜の闇に紛れるような黒い髪に、ほんの少しだけ紺がかった夜空のような瞳。悪戯っぽく笑うその顔は、どこか兄と似ている。
「リナちゃんは、暑いの苦手そうだね」
「リナ、でいいデス」
「じゃあ僕も
屈託なく笑った端正な顔に、どきりと心臓がおかしな音を立てた。普段あまり兄以外の年上の男性に接する機会がないせいだ、とわけもなく自分に言い訳をする。
「どうかした?」
覗き込んできた顔に、また心臓が跳ねて、けれどそれだけでない冷気を感じて思わず身を引く。凪の後ろに黒い
凪は気づいた風もなく、細い棒のようなものを差し出してくる。
「花火、やったことない?」
「花火って打ち上げるものじゃないの?」
「うーん、海外だとあんまり手持ち花火ってやらないのかな。楽しいよ」
みんなで夕飯を食べて、散歩がてらにやってきた川辺は、近くに街灯があるおかげでさほど暗くはない。けれど、何かが蠢く気配は確かにあった。落ち着かなげな彼女に、凪は首を傾げる。
「大丈夫?」
「あ、平気」
差し出された棒を受け取って、凪がそうしたように、地面に置かれた小さな蝋燭にゆらりと揺れる細い紙巻きの棒の先を近づける。
ジジジ、と紙の先が焼ける音と共に火が移ると凪が手招きする。隣に一緒にしゃがみこんで見つめていると、燃えた棒の先から火花が飛び出した。チリチリチリという微かな音とともに、化学式のようなかたちの火花が広がる。
「綺麗……」
「でしょ?」
オレンジ色の光に照らされて笑った顔にまたどきりと心臓が跳ねた。じっと見つめると、柔らかく微笑み返してくれる。ふわりと温かくなった胸の奥とは裏腹に、背筋がゾッと冷える感覚がして目を落とすと、火花が散っている地面に不自然に揺らめく影が見えた。
凪が持つ線香花火から細い花びらのように落ちるオレンジ色。獲物を見つけた獣のように、影がざわりとその場で舌なめずりするように蠢いた。いつの間にか兄たちの姿が見えない。
弱まる花火の光とは裏腹に、影はじわりと濃さを増し、ずるりと地面から這い上がろうとする。闇よりもなお禍々しい死の気配。狙われているのは彼女ではなく——。
なぜ、と問う間もなく、影が牙を剥く。凪の手を掴み、逃げようと声を上げようとしたその瞬間、川原の石を踏むざり、という音とともに急に光が弾けた。
「楽しそうだな」
その声に、持ち上がろうとしていた影が霧散する。凪が声の主を振り返り、その顔がひどく嬉しげに輝いた。彼女の兄によく似た暖かい気配。その左手には、凪の右手にあるのとよく似た指輪。
「
その光にあてられたように、リナの持っていた線香花火の先のオレンジ色の光がジジジ、と微かな音を立ててぽとりと落ちた。
始まる前の恋心ともろともに。
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