Day 4. 滴る
透明な傘を通してざあざあと鳴る雨音が珍しくて、レオが内側から流れる雫に見惚れていると、後ろから袖を引かれた。振り返るとリナが落ち着かなげにあちらこちらを見渡している。視線の先には大きな水溜まりと、ほんのわずか違和感のある影。
とはいえ、それはせいぜい脅かすくらいしか能のなさそうな、踏みつけてやれば消える程度の小物に見えた。
「大丈夫、僕のそばにいれば怖くないよ」
「べ、別に怖くなんてないしっ」
強がりなのは昔から変わらない。もっとずっと小さな頃は、ことあるごとに
リナよりは少し良く視える眼で相手を見極め、小物であれば放置し、危険そうな相手であればさっさと逃げる。そうして面倒を見ていても、今ひとつカイほどに彼女の「特別」になれないのがなんだか納得いかない気はするけれど。
そんなことを考えていると、妹がびくりと震えるのが伝わってきた。また何か見つけたのかと視線を追って、彼もまた息を呑む。
なんの変哲もない青年に見えた。なのに、その周囲には今にも彼を飲み込もうとするような不吉な影がはっきりと浮かび上がっている。
「あれ、何?」
周囲の人間は誰も気づかない。けれど、妹にさえはっきりと視える暗いそれは、もはやただの影というにはあまりに
「死の影——?」
と、すぐ向こうから、猛烈な勢いでトラックが曲がり角から出てくるのが視界に入った。人通りの多い、まさにその青年が歩いている歩道めがけて減速せずにそのまま突っ込んでくる。
「危ない!」
思わず声を上げたが、雨が降りしきる中、閉じられた窓の運転手に届くはずもない。とっさに妹の目を塞ごうとして、傘を放り投げて抱き寄せた。青年の方を振り返ると、衝突する寸前、ぱあっと不意に彼を暖かな光が包んだように見えた。
同時に甲高い耳障りなブレーキ音が響き、ばしゃん、と派手に水が跳ねた。
「うわっ⁉︎」
悲鳴を上げた青年には構わずトラックは何事もなかったかのように車道を走り去っていった。後には全身びしょ濡れになった青年だけが取り残されている。
呆然としたままの彼の腕の中から、妹がすり抜けるように飛び出して、青年に駆け寄る。
「あ、あの……大丈夫、ですか⁉︎」
バッグからハンドタオルを差し出しながらそう言った彼女に、青年がびっくりしたように見惚れている。自分達ではあまり意識しないけれど、どうやら彼らはこの国ではひどく人目を引くらしい。そう改めて思い出し、傘を拾ってすぐに妹と青年に歩み寄る。
全身から雫を滴らせた青年は、彼を見てさらに驚いたように妹と彼を交互に見つめる。
「双子? 妖精みたいに綺麗だね」
きょとんとこちらを見上げる顔はとても穏やかで、直前まで命の危機にさらされていたとは思えない。あまりの落差に、彼は妹と顔を見合わせて首を傾げる。
「あ、あの……それより、びしょびしょですけど、大丈夫ですか?」
「あー、まあこういうの慣れてるから平気」
「……慣れてる?」
「うん、それより君たちも濡れちゃうよ、ほら」
落ちた彼の傘を拾って差し掛けてくれる。自分はずぶ濡れだというのに、気にした風もなく。ふと、右手の薬指に指輪が嵌っているのが目についた。そこから微かに感じるのは、暖かくて穏やかな光。ちょうど、彼らの兄に感じるような。
妹の方を見ると、彼女も頷いた。そんな彼らに青年が首を傾げる。
「……何?」
「あ、何でもないです。素敵な指輪ですね。何かのお守りですか?」
そう尋ねると、青年は少し照れた様子で、けれど不思議そうな顔をする。
「いや、そういうんじゃないけど……まあ、そうとも言える……かな? どうして?」
「あ、何でもないです」
手を振る妹に青年はもう一度首を傾げたけれど、びしょ濡れの前髪をかき上げて妹の差し出したハンドタオルで顔を拭って、それからちょっと困ったようにもう一度笑う。
「これ、どうしようか? 洗濯して返したほうがいいかな?」
「あ、そのままで大丈夫」
「ごめんね、ありがとう。ちょっと僕このあと行かなきゃいけないところがあるから、これで失礼するね。ああ、よかったらこれで食べて」
そう言って青い二つの
声をかけるか悩んでいるうちに、その靄と青年を追うように、どこからともなく不意に背の高い人影が現れた。まるで影から滑り出してきたかのようなその男は、雨が降っているのに傘を差す様子もない。そうして懐から小さな瓶を取り出すと、青年にまとわりつこうとしていた靄に向かってそれを差し出す。黒い靄は、しばらく抵抗するようにその場に漂っていたけれど、ややして小瓶に吸い込まれていった。
青年はそれらの一切に気づく様子もなく、そのまま歩み去っていく。
何が起きたのかわからずじっと見つめていると、男が振り向いた。夜そのもののような長い黒髪に、黒いスーツ。彫刻のように整った端正な顔には眼鏡をかけている。全身から立ち上るのは、先ほど青年に襲い掛かろうとしていたのと良く似た——死の気配。
男は、彼と妹がじっと見つめているのに気づくと、少し驚いたように目を見開いた。それから面白がるように笑って眼鏡を外す。その双眸は、鮮やかな金。
美しいのにどこまでも不吉なその色に、ぞくりと背筋が冷えた。
「あなた……死——」
言いかけた妹にぴたりと視線を据えて、男は自分の口元に人差し指を当てた。
——誰にも話してはいけないよ。命が惜しければ。
声に出さない警告を確かに受け取って、二人は黙って後ずさりする。それを見て、男は満足げに頷いて、それからちらりと彼が持っている飴を見ると、なぜか肩をすくめてもう一度笑って、そのままふっと姿を消した。
隣で妹がほう、と息を吐く。どうやらひどく緊張していたらしい。微かに震える肩を抱いてやると、素直に擦り寄ってくる。
「
「本当に」
傘に当たる雨の音を聞きながら、びしょ濡れになった青年は何者だったのだろうか、と首を傾げる。考えても仕方のないことか、と思い直して妹と連れ立って、当初の目的通り、兄と待ち合わせしているカフェへと向かうことにした。
実のところ、彼らがその青年に再会するのは、このすぐ後のことだったのだけれど。
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