Day 3. 謎

 部屋の隅で何かが動いた気がして、リナはそちらに目を向けたけれど何もいない。それでも確かに気配を感じて、ベッドから身を起こす。かさかさかさ、というそれが噂に聞く六足の黒い悪魔なのか、もっと別の何かなのかがわからなかったので、直視して良いものかとしばらく考える。


 ——見えるけど、見えないもの、常に形を変えるもの。なーんだ?


 不意に聞こえた謎かけリドルのような声に、彼女はびくりと肩を震わせた。部屋の中には誰もいない。けれどやっぱり、かさかさ、かさかさとうごめくく気配だけが部屋の隅に感じられる。

 いかに繁殖能力が並はずれているといっても、節足動物が日本語を解するとは思えない。空調を効かせた部屋の窓は全て締め切られているから、隣家の子供の声とも考えにくい。

 ふるりと背中が震えて、それが熱のせいばかりでないと気づく。否、幼児期を除けば風邪ひとつ引いたことのない彼女が、よりにもよって旅先で熱を出すなど、想定外過ぎるその原因がそもそもなのでは、と今さらのように思い当たった。


「どう、しよう……」


 ——見えるけど、見えないもの、常に形を変えるもの、なーんだ? でも君には見えるから、わかっちゃうかな?


 彼女がその存在に気づいたことを感じたのか、くすくすと笑う声がさらに謎かけを投げかける。

 それは答えてはならないものだ。故郷でも似たような事態に出会うことはままあったが、そういう時には常にそばには双子の兄がいた。そうでなければ祖母が渡してくれた彼女の瞳と同じ色の菫石アイオライトのお守りが寄せ付けないよう守ってくれていた。


 首から下げた雫の形の石を握りしめる。けれど、気配は消えず、なぜか室温がどんどん下がっていく。エアコンのリモコンはテーブルの上。誰も触れてはいないし反応もないのに、やがて吐く息が白くなる。まるで故郷の冬のように。


 ——早く答えてくれないと、凍えてしまうかもしれないよ?


 思い当たるのは昨日、黄昏時に出会った影。のがれられたと思ったのに、つけられてでもいたのだろうか。もっとよく兄ならば、それがそうなのかを見極めてくれるだろうけれど。


 染みのように広がる影が脳裏によぎる。

 見えるのに、見えないもの。常に形を変えるもの。


 ——そろそろ時間切れ。答えてくれないならこっちへおいで。


 答えても、答えなくても、その先はきっと変わらない。身動きの取れない彼女の目の前で、すうっと影が。こちらへ向かって手を伸ばしてくるそれに、なすすべもなく両腕で自身を抱いて目を閉じる。

 冷えた気配が彼女の頬に届くその直前、ばん、と派手にドアが開く音がした。


「あっれー? なんか超寒いんだけど、エアコンつけ過ぎじゃね?」


 明るい声と共に、ふわりと暖かい風が吹く。その瞬間、目の前の影がおののいたように震えて雲散霧消した。同時に、いつの間にか薄暗く冷えた室内に、ぱあっと明るい太陽が射したように見えた。


 リナは弾かれたように立ち上がり、幼い頃からずっとそうしてきたように、その人の首に腕を回してしっかりとしがみつく。相手は驚いたようだったけれど、すぐに何かを理解したのか、とんとん、と背中を叩いて頭をゆっくりと撫でてくれる。

「なんか怖いもんでも見た?」

「いた」

「そっか、一人にしてごめんな」

 彼女たちに比べれば濃いけれど、それでも柔らかい色の栗色の髪と瞳。その瞳は異形を映さなくても、長兄カイが彼女たちの言葉を疑ったことはない。

「俺が来たからもう平気?」

「……うん、平気」

 頷きながら、祖母の言葉を思い出す。


 は太陽の神様が統べる国の生まれだから。

 凍てつく夜も、闇の気配も、あれの前では霞のよう。


 ふと見れば、先ほど影がいたあたりに、何かきらきらと光るものが落ちている。見上げると、彼女を撫でていたのとは反対の手には、紙のカップにこんもりと白い雪。その山の上に青い色が見えた。

「あ、これ? 近くでかき氷売ってたから買ってきた。お前食べたことないだろ?」

「雪じゃないの?」

「氷を細かく削ってシロップを載せてあるんだよ、熱出してたし暑いからちょうどいいかと思ったけど、ちょっとこぼしちゃったな」


 ニッと笑った兄の視線の先で、床のそれはすぐに溶けて水に変わる。


 見えるけど、見えないもの。常に形を変えるもの。

 答えは影か、氷か水か。


 正解はわからなかったけれど、太陽のように暖かい兄が差し出してくれたかき氷はとびきり美味しかったから、それでもう忘れてしまうことにした。

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