Day 2. 金魚

 この国の夏は、尋常でなく暑い。どうやら今年は酷暑といわれるくらいの異常な暑さらしいのだが、よりにもよって彼らが訪れた年にそんな異常気象を体験させてくれなくてもいいのに。


 レオがそう頬を膨らませていると、隣を歩く背の高い男が無精髭の残る口の端を上げてからかうように笑う。

「その割に元気があり余ってるようだが? まあ、とにかく体調を崩さないようにな。日本人おれたちでも慣れない暑さだ。お前らにはだいぶきついだろう」

 見下ろしてくる顔は意外と優しい。以前見た写真では、眼鏡をかけていたはずだが、どうやらファッション用らしく、今はかけていない。出会った当初はもうちょっと丁寧に「君」と呼ばれていたけれど、悪戯が過ぎて先日雷を落とされた。以来、お前呼びに降格されてしまったのだが、日本語は人称代名詞のバリエーションが多くて関係性によって変化するのが面白い。


 そんなことを考えていると、呆れたようなため息が降ってきた。

「……聞いてないな?」

「聞いてるよ、ミナトさん。でも僕だけ出てきちゃってよかったのかな?」

「まあ、あいつがついてるから大丈夫だろ」


 体調を崩してしまった双子の妹のリナを兄に任せ、知り合って数日の他人と灼熱の異国を歩く。なかなかにエキセントリックでいい、と彼は浮かれた気分で夕暮れの街を眺める。この時期なら夜中近くまで明るい故国とは異なり、傾いた日は空をオレンジ色に染めながら、濃い影を作り始めている。


 その影の中でうごめく何かがあちらこちらに見えて、彼は菫色の瞳を少し細める。ざわりざわりと這うように動くもの。壁際で、じわじわと染みのように広がって日陰のように擬態するもの。水溜りのように、影に溶けて小波さざなみをつくるもの。

 ふと、その波打つ影の上でぽちゃん、と何かが跳ねた。真っ黒な影の中で、いやに鮮やかに——ちょうど空を染める夕焼けに似た色で光るそれは、黒い波に飲み込まれようとしていた。


 ——関わってはいけないよ。目を逸らして、やり過ごしなさい。


 脳裏によみがえるのは、母方の祖母が警告する声。彼と彼の妹とよく似た青みがかった菫色の瞳は、彼らが物心ついた頃には濁って彼らを映すことはできなくなっていた。けれど、別の何かをまだ捉えることはできて、いろいろなことを教えてくれた。


 ぽちゃん、ともう一度水を跳ねる音が彼の意識を引き戻す。隣に立つ人を見上げると、怪訝そうな眼差しが降ってきた。何を見ているのか、と尋ねられる前に、彼は影に走り寄って手を伸ばした。


 逃すまい、とでもいうように影の中から黒いうねりが伸びてくる。金色の光が苦しげに震えるのが見えた気がした。まとわりつく闇色に構わず両手を差し入れて、光るそれを掬い上げる。

 瞬間、闇は色を失って、両手の手のひらの中にはわずかな水と、朱金の魚が浮かんでいた。

「……金魚?」

 覗き込んできた男が不思議そうに首を傾げる。先ほどまでの苦しげな様子はどこへやら、金魚と呼ばれたその小さな魚は彼の手のひらのわずかな水の中で優雅に尾鰭おびれをひらめかせている。

「きんぎょ、って言うの?」

「ああ、これから行こうと思っていた夜祭の金魚すくいの落とし物か……? 可哀想に」

 そう言って、彼の手の中の金魚に人差し指で軽く触れる。嫌がるかと思いきや、金魚はふるりと尾鰭でその指に触れた。助けたのは彼なのに、と何だか納得がいかない気がしたが、はてこれをどうしたものかと男を見上げるとぎょっとその目が大きく見開かれた。

「何……?」

 呟いて、けれどすぐにその理由を知る。手の中にあったはずの朱金色も、わずかな水も綺麗さっぱり消えていた。代わりにふわりと水の気配が頬をかすめる。


「ありがとう」


 まっすぐ伸びた黒い艶やかな髪と、朱金の着物に身を包んだ少女は、彼にふわりと笑いかけ、それから隣の男の襟元に細く白い手を伸ばして引き寄せた。真っ赤な唇が男の頬に軽く触れ、すぐに離れる。驚いた顔をした男に妖艶に微笑んで、彼女は彼らの横をするりとすり抜けていった。


 束の間呆気に取られ、振り向いた先には影も形もない。

 ただ、どこか遠くでぽちゃん、と何かの跳ねる水音が聞こえた。

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