18.群青

「あぁ、とてもきれいな群青だ。美しい。きみにはさぞかし、世界が綺麗に見えているんだろうね」

 後ろから突然声をかけられたラピスは、驚きに身体を震わせて振り返りました。

 ここはラピスが人のいないところを探し求めて、ようやく見つけた憩いの場だったのです。木漏れ日に吹き抜ける風が心地よい、ラピスがどうにか自然に息のできる場所でした。

 ラピスに声をかけてきた男は、上から下まで真っ黒い影のような男でした。チューリップハットの下の瞳は、こちらをじっと見つめています。

 なんだか、気味が悪いな。

 ラピスは目を離すこともできず、そう心のうちで思いました。

 ラピスがどう思っているのか、男にも分かったようでした。帽子を取ってこちらへ見せる表情は苦笑いです。

「……あぁ、突然すまないね。あまりに珍しい「色」だったから、つい声をかけてしまった。気味が悪かったかい? それはそうだ。謝るよ」

 すまなかったね、と男はラピスに頭を下げました。

 珍しいこともあるものです。ラピスのような子どもに、丁寧な挨拶をする者はこれまでいなかったからです。ラピスは、影の男がほんの少しですが怖くなくなりました。

 すると今度は、聞いてみたいことがふつふつと湧いてきました。少しだけ、話をしたいと思ったのです。

 ただ、そうなるとラピスは少しばかり困りました。


 名前を聞くときは、自分から名前を名乗るものだとラピスはお父さんに何度も言われていましたし、きちんとそれを覚えていました。けれど、お母さんからは知らない人に自分から名前を言わない、と言いつけられてもいました。

 結局、初めての人には自分から名前を言えばいいのか、言ってはいけないのか、ラピスには判断がつきません。

 結局、今回はお母さんの言いつけを守ることにしました。


「おじさん、誰?」

「私かい? 私はビー玉売りだよ。まだまだ修行中の身だがね」

 修行中、という言葉にラピスは不思議に思いました。

 影の男の持ち物はカバンがひとつだけでした。修行といえば滝に打たれたり重いものをたくさん運んだりする様を思い浮かべましたが、ここにはどちらもありません。

 ここにあるのは静かな安らぎだけです。

 けれど、それよりもっと不思議なことがありましたから、ラピスはビー玉売りに尋ねました。

「ビー玉って何? おじさんは何を売っているの?」

 尋ねられたビー玉売りは驚いたようでした。

「ビー玉を知らない? ……それもそうか、シャボン売りと一緒に、ビー玉売りもとんと姿を見せなくなった。最近はやれ映画だ写真だビデオだと昔がえりできるものは多くあるからね。こればかりは仕方がない」

 ビー玉売りの言葉は、後ろへ続くにつれて小さくつぶやくようになりました。表情はひどく寂しそうで、ラピスはもう少しだけ、話を聞きたくなりました。

 寂しいのが切ないのは、ラピスもよく知っていたからです。

 もっと話を聞かせてよ。そうラピスが願いますと、ビー玉売りは近くのベンチを指差しました。そこへふたりで腰掛けると、ビー玉売りはゆっくり口を開きました。

「ビー玉とはね、『心』をガラス玉へ写したもののことだよ」

 「心」は誰もが持っているけれど、誰ひとり同じものはない。その千差万別なモノを、ビー玉売りが丁寧にガラス玉にしまいこむ。それがビー玉だと、ビー玉売りは言います。

「『心』を売るもの。それがビー玉売りだ」

 ラピスへ語るビー玉売りは、どこか誇らしげに見えました。先程の寂しそうな表情は、今はもう見えません。


 目に見えない心なんてものを、ガラス玉に込められるわけがない。

 この人はウソをついているか、そうでなければ少し気が違ってしまっているんだ。

 そう思うことは簡単でした。けれど、ラピスはなぜかもう少し、話を聞きたくなっていました。

 もし、そのビー玉が本当ならば、ひと目見てみたいと思ったのです。

「ビー玉に『心』を込めたら、どうなるの? 人の胸から、心は消えてしまうの?」

 ラピスは自分の胸に両手を当ててそう聞きます。もしそうなら、ビー玉売りは人から心を奪う者、ひどく恐ろしい者なのではないかと思いました。

 けれど、そんな不安をビー玉売りは柔らかなテノールでかき消します。

「そんなわけはないさ。人の心は、想いという潤いを生み出し続ける泉だ。心からビー玉へと移し替えたとしても、失われることなんてありえない」

 きみだって、いつもたくさんの想いを抱えて生きているだろう? ビー玉売りは、ラピスと目を合わせてそう問いました。合わせた瞳の深い黒を、不思議と怖いとは思いませんでした。

「……ビー玉は、どうやって作るの? 痛いことやつらいことがあるの?」

 ビー玉売りは、問いかけたラピスの頭をやさしく撫でました。くしゃくしゃと撫でられて、手が退けられたあと、ビー玉売りは安心させるように言いました。

「ただ強く、想うだけでいい。その強い想いを、私がすくい上げてガラス玉に込める。すくい上げるのも込めるのも上澄みだけだ。源泉を枯らすようなことはしないさ」

 上澄みだけでも、十分ビー玉は彩られる。ビー玉売りはそう重ねて告げました。

「それなら……もし、それなら……」

 もし、自分の『心』でビー玉が作れるのなら。ラピスはいつの間にか、そう考えるようになっていました。

 どうしようもなく、ビー玉売りの言葉に惹かれていたのです。

「あぁ、できるよ。ここまで話を聞いてくれた礼にしてもいい。少年、きみが望むなら、ひとつビー玉を作ろう。私も、きみのビー玉が見てみたい」

 そう言うビー玉売りの笑顔はまるで自分と同じ歳くらいのような、明るく屈託のない笑顔でした。

 目を閉じて、ビー玉に込めたい世界を強く思って。ビー玉売りはそう言いました。ラピスは言われるがままに目を閉じて、自ずから胸の前で手を組み合わせました。

 思い浮かべたことは、何というわけでもない、昼下がりの午後でした。このコンクリートに囲まれた町に越してくる前に住んでいた、群青の空と紺碧の海の見えた小さな町です。

 額に当てられた手はやさしく暖かく、どこか心を暖められているように思いました。


「さぁ、ご覧」

 その言葉で、ラピスはようやく目を開きました。

 ビー玉売りの差し出した手には、ひとつのガラス玉が置かれています。それは、群青色に輝く美しいビー玉でした。

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