19.氷
星空珈琲館は不思議な店だ。
一面の花と果てのない空に囲まれたその店の詳しい場所は不明、開店日も店主の気まぐれであるという。開いている合図は、出窓に手乗り猫の編みぐるみが三つ並んでいること。
ただそこでは、極上の珈琲が飲めるという。
そんなあやふやな、インターネットに溢れている「都市伝説」のひとつ。
(そう、思ってたんだけどなぁ)
気がつけば、あたり一面が青い花で埋め尽くされていた。
自分がどうしてここへ、そしてどうやってここへ来たのか、いまいち思い出せない。先程まで、自分は大学の講義室にいたはずなのだが。青年はひとり首を傾げる。
少し強い風に足元の花々が揺れる。青年は何気なく風の吹いてくる方向を見た。
するとそこには、こじんまりとした一軒の店があった。その他には、地面に咲き誇る花と晴天の空しかない。どこへ行くこともできそうになく、仕方がないと青年はその店へと近づく。
噂通りの小さな店だ。出窓が一つついている。レースのカーテンで中はよく見えないが、出窓には編みぐるみの猫が三匹と、ねずみの編みぐるみがひとつ鎮座している。猫はそれぞれ色が違い、ねずみの編みぐるみには吹き出しがついていて「ちゅう」と鳴いている。少し考えて、あぁなるほどと青年は納得する。
(「あきないちゅう」……かな)
さて、と青年は扉の方へと足を向ける。他に行きようもない、と入口扉に手をかけて、ゆっくりそれを押し開いた。
控えめなベルの音と共に、青年の元へ芳しい珈琲の香りが訪れる。カウンター席とテーブル席が用意されているが、店に先客はいなかった。緩やかなクラシック音楽が流れている店内は、どこか異世界のように思えた。
「いらっしゃいませ。良ければお好きなお席へ、どうぞ」
入るのを躊躇した青年へ、静かな声がかけられる。初めて聞く声だが、心地よく耳に馴染む声だった。
青年は勧められるままカウンター席の一つへ腰掛けた。さっぱりとしたシャツにジレをまとう喫茶店のマスターは、ご注文は、とメニューを出した。
小さなメニューはシンプルだった。飲み物は珈琲、カフェ・オ・レ、紅茶の三種、軽食の類はサンドウィッチ、ホットサンド、パンケーキの三種だ。
どうしようかな、と悩み始めたところで、はっと青年はズボンの両ポケットを上から叩いた。
財布も携帯もない。ここで品物を頼めば無銭飲食になる。
頼む前でよかったと思いながらも、何も頼まないのにカウンターに座っているのも気が引ける。しくしくと胃が痛みはじめた。
「あの、自分は今持ち合わせが……」
「えぇ。ここへ来られる皆様そうおっしゃいます。ただそれもやむ無しですから、お金はいただかないことにしています」
「……?」
なんだか要領を得ない話で、青年はいくらか目を瞬かせてマスターを見た。マスターはにっこりと笑うばかりで、それ以上何かを言ってはくれない。
メニューに再度目を落とす。確かに、そこには値段が書かれていない。
(……思ったよりヤバいとこ、なのでは)
ひやりと内心汗をかく。他に客はいないし、このまま席を立ったとして見逃してもらえるかも分からない。第一、他に行き場もないからここへ入ってきたのだ。ここから出てどこへ行くというのか。
「今の時期は、あちらがおすすめですよ」
青年の胸中を知ってか知らずか、マスターはそんなことを言ってすっと店の奥を指差した。
そこにあったのは珈琲の抽出機だった。けれど、青年がよく知るフィルターでのドリップ式のものではなく、やけに縦に長い構造のものだ。水が滴るための突起を持つガラスの球体、挽いた珈琲粉を入れるらしい細い円筒形の筒、そこから抽出される珈琲を受け止めるどっしりとした円筒形のサーバーが上から順に連なって、ひとつの器具となっている。
「水出しコーヒー、でしたっけ」
ダッチコーヒーとも呼ばれる、湯ではなく水で作る珈琲だ。雑味が少なく飲みやすいと言われる。
「うちは少しだけ違いまして。水出しならぬ氷出しです」
マスターの言葉に、青年は上部のガラスの球体へ目をやった。上部の水を入れるガラス部分に氷が山と詰め込まれていたことだ。
上部の氷が溶けた雫が下へ落ち珈琲が抽出される。その速度はひどくゆっくりだ。
「こちらで今作っているのは今晩の分ですね。1度作るのに9時間ほどかかりますので」
朝方に来られる方は珍しい、とマスターは柔らかく苦笑した。
そう言いながら出されたのはアイスコーヒーだ。円筒形のすらりとしたグラスに氷が程よく浮かぶアイスコーヒーと、マスターの方を青年は交互に見る。
出されたそれに手を付けていいか迷っているうちに、氷が少しずつ溶け、何も手を触れないままカランと涼しげな音を立てる。
「……次、来たときに払います……」
「いいえ、お構い無く。余らせても廃棄に回さなくてはなりませんし、お客様が次また来られるかは分かりませんので」
ストローをさしたあたりで、マスターがそんなことを言うので青年は顔を上げた。相変わらず、彼の言葉はうまく飲み込めない。
ひんやりと涼しげなグラスを持ち上げ、ストローから青年はひとくち珈琲を飲む。冷たい珈琲は酸味が少なく程よい苦味が広がり、焙煎した珈琲の香りが鼻を抜ける。薄くもなく濃くもなく、ちょうどいい塩梅だ。
これまで飲んできた珈琲は何だったのか。そんなことを思うほど、美味しかった。
声を出すことも忘れて、青年はグラスを持ち上げアイスコーヒーを見る。
「お気に召したようで何よりです」
そう言われて、ようやく自分の目の前にマスターが立っていることを思い出した。
「……すごく美味しいです」
それだけ言うのが精一杯で、青年はもう一口珈琲を飲む。
穏やかなクラシック音楽のかかる喫茶店で予定も気にせず珈琲を飲む。あまりにも贅沢な時間だ。
そうして珈琲を飲み終わる頃、入口の扉がひとりでに開く。軽やかなベルの音に、青年は後ろを振り返る。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
その言葉を聞いた瞬間、ぐらりと視界が歪んだ。体が傾ぐ先を見るとそこは真っ暗な穴が開いている。
「……と。晴人!」
そう肩を揺すられる。がばりと身体を起こした。自分の肩に手をやっていたのは友人の
「おまえさぁ。講義開始五分で今まで爆睡はねぇだろうよ」
「…………珈琲飲みきっててよかったぁ」
「は?」
「いや、めっちゃうまい珈琲出す喫茶店に行ってたのよ。水出しならぬ氷出しの店」
眠りこけたお陰で少々しわの寄った教科書を片付けながら、そう答える。
次に眠るときには、もう一度あの店に行けたらいい。次も同じものを、今度は自分から頼もう。
青年――晴人はそう心に決めた。
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