15.なみなみ

 よっこいせ、と随分古めかしい掛け声とともに、青年は座布団の上へ座り込んだ。

 座した前のローテーブルには乾き物や刺し身が並ぶ。乾き物は小皿にうつしたが、刺し身はスーパーのパックのままだ。ささやかな晩酌のつまみである。

「ま、一杯一杯」

 背の低いグラスを片手に傾けて、静かにゆっくりと瓶ビールを注いでいく。

「変なやつだよな。泡が一切入らないビールが好き、とかさ」

 さんざん職場でビールを注いで回った経験から、泡だらけにする注ぎ方も泡をまったく立てない注ぎ方も染み付いている。

「まぁ、某訴訟大国ではビールの泡と液体の比率で訴訟になった、なんて話も聞くけど」

 琥珀色の炭酸がなみなみ注がれたグラスを向かいにおいて、青年は自分のグラスにも同じものを注ぐ。

「んじゃ、乾杯」

 向かいに置いたグラスへ自分のグラスを持っていき、カツンと軽く合わせた。そのまま自分のグラスをぐいとあおる。冷たい炭酸が喉を駆け下りて行く。

 トン、とグラスを置いて、青年は代わりに箸を手に取った。ひとこと小さく「いただきます」と合掌し、刺し身に手を付ける。

 地元の漁港で捕れたというタコはしっかりとした弾力があり、ぶつ切りの足は噛めば噛むほど甘みが生まれる。

 海が近いこの町は、スーパーに売っている刺し身がすでに美味い。同居人が魚好きだったこともあり、食卓にはよく魚料理がのぼった。


 向かいのグラスはふつふつと小さな泡がのぼっては消えていく。

 グラスが汗をかいていく中、青年は時折思い出したように口を開いた。すべり出る内容といえば、今日の仕事の話、のらりくらり事なかれ主義上司に自分のことを目の敵にしているいけ好かない同僚といった会社の愚痴から、会社のランチメニューに新しいものが加わった、などささやかな話まで、思いついた順に話をする。

 愚痴など聞いても楽しくないだろ、と言ったこともあったが、同居人はどんな話でも好んで聞いた。

「自分の知らない世界の話を聞くのが好きなんだ」

 そんな風に言っていたのを覚えている。


「お前にやってもらう仕事はない、この部署には必要ない、って上司いる前で同僚に言われたときには驚いたなぁ……。目は合わなかったし、やっぱり嫌われてるなぁって苦笑いしたよ。クビにはならなかったけど……って、これは前にも話したか」

 グラスの向こう側には一つの写真立て。知らない世界を見てくるんだ、と旅立ってしまった同居人の写真が入っている。

 行き先は知らないし、帰ってくるのかどうかも分からない。それでも青年はいつものように、晩酌をしながら同居人のことを思い返しながら、話をし続けていた。

 それはどこか祈りにも似ていた。

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