6.筆

 祖母の家には古い蔵があった。いつもは鍵をかけられているそこは、埃とカビと、それから古い紙の匂いで満ちていた。


 祖母の家へやってくるのは年に二度の両親の里帰りのときだけだった。

 初孫にあたる望海のぞみにとって「良い孫」という猫をかぶって礼儀正しく振る舞うのは特段大変なことではなかった。

 良い孫でいることが自分のためだと思っていたし、「良い娘ね」と褒められれば自分がなんだか賢くなったように思えて、悪い気はしなかったからだ。


 そんなある年の夏休みの夕食時、母が望海にこう切り出した。

「望海、今年もお祖母ちゃんの家、行きたい?」

 母の腹には、弟が眠っているのだという。そろそろ外に出て、望海にも挨拶してくれるという。望海もかつては同じように生まれてきたのだと、母は優しく教えてくれた。

 弟がこの世に来るまでに、母は病院に行かないといけないらしい。父もそれに付き添うらしい。

 本当は、今年も母と父と一緒に祖母の家に行きたいと思っていた。父母と離れて一日だって過ごしていたくなかった。

 それでも、母が今こうして自分に聞いたのは、きっと「行ってほしい」からだ。

 ひとつ返事で頷いた。

「もうひとりで行けるよ! お姉さんになるんだもん」

 そう笑顔で答えれば、どこか安心したように頭を撫でてくれたので、これでいいと望海は自分で納得する。納得させたのでは、ないはずだ。


 そうして祖母の家へやってくれば、いつもと同じように祖母は歓迎してくれた。幼いながら電車を乗り継いでひとりで来たことを、祖母は大変褒めてくれた。

 皺のよった手で頭を撫でられれば、無意識に強張っていた肩からそっと力が抜けた。


 望海が飽きないように、祖母は手を変え品を変え相手をしてくれた。それはいつものことだからあまり気にしなかったのだが、そのうち祖母はいつも開かない蔵を開こうか、と言ってくれた。


 蔵には数多の箱や巻物が置かれていた。箱の中には望海が特に興味を持たないようなものも多かったが、中には祖母が幼い頃に遊んでいたような、祖母の「宝物」も出てきた。コマにメンコ、雑誌の切り抜き。その中に、一本の筆があった。

「お祖母ちゃん、これ……」

「あぁ、これもお祖母ちゃんの宝物。お友達とお話するための筆さ」

 望海は首を傾げた。その仕草を見て、望海もやってみるかい? と祖母は笑んだ。


 初めての筆で、初めての硯に墨で書いた文字はへにょりと曲がってばっかりで、思うように書けないもどかしさに望海は苛立ちを隠せずいた。祖母が「初めてはこんなもんさ」となだめる言葉も聞こえない。自分の膝を見つめるように俯いた。

 損ねた機嫌を直すためか、祖母がそっと席を外した。どこへ行ったのか、望海は気にも止めない。

「お母さんと、弟に、お手紙書くのに」

「ふーん。これがそうか」

 男の子の声がした。パッと視線を上げれば、机の向こうに浴衣を着た男の子がいた。

「お、お祖母ちゃ……」「シーッ」

 知らない子どもが入り込んでいる、と訴えるよりも先に、その少年が自身の口元に人差し指を立ててそれを遮った。

「何もしねーよ。お前が呼んだって、人が来たりしないとも思うけどさ」

「あ……あなた、だれ?」

「お前もアイツとおんなじこと言うんだな。名前なんて、好きにつけろよ。……それより、お前もヘッタクソだなぁ、文字」

 望海はそう言い切られて、じわりと涙を目に浮かべる。下手くそなのは分かっているのだ。それでも、上手になる方法もまた分からない。

「教えてやるよ。上手な書き方ってやつ」

 良いお手紙を書くんだろ? その少年の言葉に、望海はコクリと頷いた。


 少しして、祖母が麦茶とスイカをもって戻ってきた。その頃には、望海が筆で書いた文字の並ぶ紙はずいぶんと増えていた。

「ずいぶん書いたねぇ。上手、上手」

「ほんと? のぞみ、上手になった?」

「なったとも」

 えらいね、と祖母は望海の頭を撫でてくれた。心がポカポカとして、自然と笑みが溢れる。

「えとね、この子が教えてくれたの……!」

 望海は隣を指差した。けれど、そこには誰もいない。

 祖母が来る少し前までずっと隣で教えてくれていた少年は、祖母の方へ視線を向けた途端にその姿を消していた。

「……いたの、ほんとに! 嘘じゃないもん!」

「あぁ、そうだろう。ばあちゃんはもう会えないけど、知ってるよ」

 祖母が宝箱に入れていた筆。それを使って文字を書いたその時だけ、ひとりの少年がそっと傍に立つという。そのうち歳を重ねると祖母の隣には立たなくなったから、子どものときの宝物と一緒に納めてしまったのだという。

「望海がもし、また会いたいって思うなら。ばあちゃんはこの筆を望海にあげようと思う。どうだい?」

 望海は古い筆をじっと見つめた。鉛筆より書きにくくて、文字を書くためにたくさん準備もいる、細い筆。持って帰るまで折れてしまわないかも心配だ。

 それでも、望海は首を縦に振った。

「私、あの子とたくさんおてがみ書く! おばあちゃんにも書く!」

 その言葉に、祖母はとても嬉しそうな、そしてどこか懐かしそうに「待ってるよ」と答えた。

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