4.滴る
ぽつり、ぽつりと控えめに音出しをするような音色が、大地を楽器に盛大な演奏会を始めるようになるまで、さほど時間はかからなかった。
ひとりの青年が、ビル入り口の屋根の下へと駆け込んだ。雨に降られたのはほんの少しの時間だったというのに、上から下まですっかり濡れ鼠になってしまっていた。
髪から、袖から滴る水滴もそのままに雨越しの空を見やれば、陽の光も降り注ぐ明るい昼下がり。
(狐の嫁入り、なんて言ったっけ)
雨の勢いは弱まる気配を見せない。普通の雨なら空模様でなんとなく想像もできるが、天気雨ではそうも行かない。
そういえば、と青年は恐る恐る、抱えていたトートバッグを開いてみた。
その中に入っていたのは黒い音符の並ぶピアノ譜がいくつか。自分の身体を盾にするように抱えておいたおかげか、濡れてひどい事にはなっていないらしい。ほっと胸をなでおろした。
(それにしても、この勢いだったら嫁入りもダメになるんじゃないの?)
そんなことをぼんやりと考えてしまう程度には手持ち無沙汰な時間だった。この濡れ鼠では次の予定にも差し障ることが確定し、現実逃避したくなったのもある。
そこへ、雨の町から青年と同じようにひとりの女性が屋根の下へと駆け込んできた。
ひとまず屋根の下についた安堵からか、肩の力がストンと落ちたように見えた。そこでようやく、この屋根の下に先客がいることに気がついたらしい。どうも、と軽く会釈をすれば、折り目正しく会釈を返された。
「ひどい目に遭いましたね」
「えぇ、本当に」
女性は雨で袖に張り付いてしまっている薄手のカーディガンを脱ぎながらそう答えた。ノースリーブのワンピースから伸びる腕へ、栗色の髪から水滴が滴る。
何故か、息が詰まった。頬が赤くなっていく自覚がある。あまり見つめても失礼だとさり気なく視線を外し、濡れた服を少しでも乾かすように襟元からパタパタと風を送り込んだ。
ただ、女性はその仕草にあまり意図を感じなかったらしい。カバンから出したハンカチで雨を拭っていく。
「でも、天気予報だと今日は晴れだったのに、こんな驟雨に遭うなんて」
「……しゅうう?」
聞きなれない単語に青年が尋ねたのは無意識だった。小首を傾げるその態度に、女性はようやく合点がいったらしい。すなわちそれは、彼と彼女の間に様々な知識と文化の隔たりがあるということ。
「最近は、ゲリラ豪雨なんて言いますね。突然のひどい雨。だけど、私、嫌いなんです。あの言い方。突然降る雨なら、驟雨とか村雨とか、この国に元からある言葉が使いたくて」
そこまで言って、ようやく彼女が「自分が誰と話しているか」が自覚できたらしい。
突然すみません、と女性は深々と頭を下げた。
「普通の人は、そういうことあんまり気にしないですよね。分かりやすいほうがいいですし」
「そんなこと、ないですよ」
彼女の言葉に、青年は思わずそう言い返していた。女性が不思議そうにこちらを見る。自分の頬が紅潮するのを自覚する。
けれど、これは言わないといけない。それは、青年も「クラシック」を愛していたから。
「新しい方が良いのが当たり前だとは、あんまり俺は思わないです。確かに新しい方がいいことはあるけど、古いからいいことだって、たくさんあります」
女性はどこか驚いたように青年を見ていた。その眼差しに、自分が少々浮世離れた発言をしたことに青年はようやく気がついた。
慌てて取り繕おうと挙動不審になった青年を前に、女性はくすくすとこらえきれずに笑いを溢した。
「理由を、聞いてもいいですか?」
女性はそう言葉を継いだ。青年が、何故古いものを愛するのか。その理由が聞きたいと、天気雨の中彼女は尋ねた。
そんなに特別なことはないですよ。青年はそう前置いて、トートバッグの中身を彼女へ見せた。
青年の持つトートバッグの中には、古い時代に作られた楽譜が入っていた。バッハ、ショパン、ラフマニノフ。錚々たる音楽家たちがトートバッグの中に鎮座していた。音符が並び歌うピアノ譜を、ようやく乾いた手でいくらか引き出す。
「俺が学ぶ曲は、ずっと前に完成された作品です。だけど全然古いなんて思わないし、いろんなことを俺に教えてくれます。街中にあふれる曲だっていいものはたくさんあるけど、古いから良いことだってきっとある。……俺は、そう思ってます」
言いきってから、じわじわと自覚する。自分は、今とても恥ずかしいことを言ったのだろうと。キョトンと見上げる女性の瞳を見つめ続けるのが気恥ずかしくなり、青年は照れ隠しに視線を外した。
「すみません、何か意味分かんないこと言って」
「……いいえ。私、今のお話好きでしたよ?」
雨音の中に響いた、穏やかな声音。まだ少し頬の紅潮は収まらずとも、青年は女性の方を見た。想像通りの柔らかな笑みに、つられてこちらの表情も和らいだ。
その時だ。
遠くの方から、何やら古風な笛の音か聞こえてきた。フルートやリコーダーなどではない、古楽器の音色だ。いわゆる雅楽に使われる楽器の音、それはすなわち神道式の婚姻式にも使われる楽器だ。
音のする方を見た。女性も同じ方を一緒に見る。
大きな唐傘をさした、花嫁行列が静々と歩んでいた。
この雨の中、楽の音色は澄み渡って響き、行列は静々とこちらへ歩んでくる。
思わず、息を呑んでいた。厳かな雰囲気に飲まれたのかもしれない。けれど確かに、この天気雨の中その行列はふたりの前を通り過ぎる。
白無垢の花嫁はうつむき加減で、その表情はうかがい知れない。けれど彼女を先導する者、連なる者たちの姿は、決して人の姿とは言い難かった。
明るい茶色の毛並にピンと立った耳、二足歩行であってもそれはいわゆる「狐」の姿。
ゆっくりゆっくりと狐の花嫁行列が通り過ぎる。見せつけるわけでもない、けれど確かな祝い事として。
どれほど、身じろぎもできずその行列を見送っていただろう。
気がつけば花嫁行列は跡形もなく消え去り、青年たちの前には何の変哲もないビル群が広がっていた。
「……あの……今の……」
「あ……あなたにも」
見えたんですか、という言葉は告げられずともわかった。コクリと頷く。
白昼夢の類にも思えた、狐の嫁入り。けれどその参列が自分だけでないのなら、それは本当に起きたことのように思えた。
雨はいつの間にか上がっていた。ビルの向こうに、うっすらと雨上がりの虹がかかっていた。
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