3.謎

 沢崎歩の前に開かれた扉の奥には、びっしりと本の詰まった書架が理路整然と並べられていた。夏の暑さを感じさせない少しひんやりとした地下の書庫は、この空間の主が書物であることを教えている。

「すごい、ですね」

「でしょう。運び込むのには苦労したよ」

 家主――常磐詩織はそう苦笑した。その笑みは、歩がかつて見た笑みと相違ない。こうして会うのは十年以上ぶりになるが、彼女はかつての清楚なイメージそのままに、歩の前に立っていた。


 歩は県外の大学に通う学生である。何もトラブルがなければ、この一年が大学生活最後の年になるはずだ。

 専攻は民俗学。いわゆる風土や文化を記録、蒐集していく学問である。

 将来の職にこの学問がどう役に立つのかは、正直なところよく分かっていない。将来の職につなげようと思ってこの分野に足を踏み入れたわけでもない。

 民俗学を専攻しようと思った一番の理由。それは歩の眼前にいる女性、詩織の存在だった。


 常磐詩織は歩の住む小さな村に越してきた人間だ。歳は歩よりも十ほど上で、初めて出会ったときにはその都会さもあってドギマギとしたのを今でも覚えている。

 彼女が越してきたのが、いわゆる「民俗学」という学問のため、と聞いたのは、歩が高校に上がる歳のときだった。

 その聞き慣れない学問を、彼女はこう説明した。

「『想い』や『祈り』を紐解いて、未来に謎を残さないようにする学問だよ」

 人の仕草や言葉、決まった挨拶、風習には、必ず何か「意味」がある。その意味は、人が何かを想い、祈った末の結果である。

 そして、それらは伝えられていくうちに、時代を経て移り変わり失われることもあれば新しく生み出されることもある。

 仕草や言葉、風習に託された「真意」を見て知って、未来の人々が謎を抱かないような、架け橋を作る。それが民俗学というものだ、と彼女は言った。


 彼女の蔵書は両親から受け継いだものらしい。古い文献などを閲覧させてもらったあとで、リビングへ場所を移して懐かしい話に花を咲かせる。

「そんな恥ずかしいこと言ってた? 私」

 歩が民俗学を専攻していること、その理由が彼女であることを話せば、詩織は少し頬を赤らめた。

「どこに行こうか迷ってた俺にとっては、とても素敵な言葉でしたよ」

 出された麦茶に手を付ける。コップを傾ければカランと涼しげな音がした。


 遠くのスピーカーから、古ぼけた音色で音楽が響いてくる。

 遠き山に日は落ちて、もとい家路という邦題がついたこの曲は、もともとドヴォルザークという外国の作曲家の交響曲の一節であるという。

 気づけばもう日暮れの時間だ。すれ違う人の顔が見えづらくなる時。昔、このような時間にすれ違うとき、「誰そ彼」と訝しんだという。

「そういえば、この時間の挨拶が大事だって話。あれも、意味があったんですね」

「……そうだね」

 彼女の表情が少し陰る。触れてはならない話題だっただろうか。歩がどう二の句を継ぐべきか迷っているうちに、彼女がこちらの様子に気がついた。

「父は、正しい挨拶をしなかったみたい」

 彼女の父は、彼女と母親を残して突然姿を消したのだという。そのうち母は病に倒れ、今はこの家に詩織一人が住んでいる。

「きっと、好奇心に勝てなかったんだろうね。――そういう人だったから」


 この村には奇妙な挨拶の仕方がある。

 はじめに必ず「もしもし」とつけること。正しい挨拶を返さない者からは、すぐに逃げること。

 村の外へ出て、初めてそれがこの村だけの風習だと知った。


 歩は「正しい挨拶をしない者」に村の中で会ったことはない。ただ、詩織の態度や触りだけでも学んだ知識で、大方の推測がついた。

 何の理由もない「風習」は存在しない。効率や手際などの理由もあるかもしれないが、この「挨拶」はそれ以外のものを孕んでいる。


「心配しなくても、私は大丈夫」

 妙な気は起こさないよ、と言い含めるような笑みだった。いたたまれない気持ちになり、ただ頭を下げた。

「――また、来てもいいですか?」

 別れ際に、そう尋ねた。一人暮らしをしている女性の元へ、学生とはいえ成人している男が入り浸るのもあまり風聞がいいものではないが、もう少し、彼女と話がしたかった。

 その意を汲んだのか否かは定かではないが、詩織は「もちろん」と快諾した。

「久々に会えて楽しかったよ。――帰り道は、気をつけて」

 手を振る彼女に、歩はひとつ頭を下げて、帰路についた。

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