2.金魚

 ずんぐりとした鉢の口は自由に波打っている。注ぎ込まれた水の中を悠々とたゆたうように、赤、黒、黄と色とりどりの金魚が数匹泳いでいる。

 金魚の鉢を丁寧に広めの桶へ入れ、桶を吊るす太い縄へ棒を一本渡す。清涼感のある浅葱の法被はっぴを羽織った男はゆっくりと、けれど慣れた動作で天秤棒を持ち上げた。


 平屋の並び立つ町の大通りには、買い物をする小袖に雪駄の女性や風車を片手に駆け回る子どもたち、仕事の最中なのか襷をかけた男性など、人々の行き交う喧騒に満ちている。

 ひとつ大きく息を吸い込んだ。

「きんぎょ~ぇ、きんぎょ~~」

 青年の声は喧騒の中でもよくよく通った。お決まりの口上を述べながら、ゆっくりと町の大通りを歩んでいく。

 昼下がりの日差しが金魚の踊る鉢を煌めかせていた。特別なことなど何もしなくても、この陽光が金魚たちを主役に引き立てる。

「あぁ金魚売りか。もうそんな時期なんだねぇ」

「お前が来たら「あぁ夏が来たなぁ」って思うよ」

 そう町の人々から声をかけられる。「そりゃありがたい、一匹どうだい?」と返す言葉で営業をするのも忘れない。

 最近は青年のような「物売り」は数を減らしているという。実際、同業者もずいぶん少なくなった。異国の船が遠い港についたというが、その頃から少しずつ、町が変わりつつあるように青年は思っていた。

「きんぎょ~ぇ、きんぎょ~~」

 青年の声に惹かれて、子どもたちが駆けてくる。青年は一度立ち止まり、天秤棒を下ろした。

「さぁさ近くで見ておくれ。ついでにおとうかおかあを連れといで。しばらくここで店開きだ」

 甲高い歓声を上げる子どもたちにそんな触れ込みをしながら、彼らが誤って鉢をひっくり返さないか、金魚に悪さをしないかをひっそり見張る。

 とはいえ、年に数回とはいえ何度も来た町だ。子どもたちの中にも見覚えのある顔がちらほらといる。金魚売りがいかなるものか、分別がついていない者はいないだろう。

 今日はどの道筋で町を歩み金魚を売っていこうかと、そんなことを考えていたときだ。


 視界の隅に、鮮やかな赤いヒレが掠めた。


 反射的に顔を上げた。金魚売りの前には、ひとりの少女が立っていた。

 自分たちの纏う服とは違った、赤い裾のひらめく洋装をまとった少女は興味深げに金魚鉢を見下ろしていた。年の頃は、恐らくここで金魚を見ている子どもたちと変わらない十前後だろう。その子どもたちといえば、その特異な様相の少女に少し戸惑い、距離を取るよう後ずさっている。

「なにをしているの?」

 白磁のような肌の少女がこの国の言葉を話したのには少し青年も驚いた。少し舌足らずな印象もあったが、通じぬわけではない。

「金魚を売っているんですよ。知っていますか?」

 金の髪に青い瞳の少女が、この国の生まれでないことはひと目でわかる。金魚が彼女の国でも売られているのか、それは青年にはわからないことだ。

「きんぎょ――これが、そうなの」

 少女は小さな声でつぶやいた。どこか、少女には憂いが見えた。

「どうぞ、近くで見てやってください。ご入用ならお売りしましょう」

 少女はゆっくりと金魚鉢の前にしゃがみ込んだ。そっと金魚鉢に這わす爪先は、服と同じく赤に染められていた。


 彼女が眺めているうちに、子どもたちはひとりまたひとりと立ち去っていった。青年としては商売にならない。商いのためには、何か言って異国の少女を追い払うべきだと分かっていた。

 それでもできなかったのは、青年が彼女から目を離したくなかったからだ。

「これは、あなたが育てているの?」

 自分が問われているのだと気がつくのに、少し時間がかかった。そうですよ、と青年はひとつ頷く。

 金魚は手ずから育てなくては生まれない種だ。育て方を間違えば、美しい色もヒレも失ってただのフナに戻ってしまう。

「あなたの国にも金魚はいますか?」

「いいえ。でも、知ってる。あの人が、おしえてくれた中にいたから」

 少女は赤い金魚に注ぐ視線を外さない。


「ディア」

 耳慣れない単語が少女の名前であると分かったのは、金魚を見つめる少女がその声に振り向いたからだ。

 立っていたのは、少女と同じように黒い洋装に身を包んだ男性だった。歳は親子ほどに離れているように見える。

 少女は立ち上がると、一度こちらを振り返った。

「ありがとう。――しあわせに」

 少女の言葉が何にかけられたものかを、推察するのは野暮というものだろうか。


 駆け去っていく少女の後ろ姿は、狭い金魚鉢を泳ぐ金魚のように見えた。

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