紙片綴り

唯月湊

1.黄昏

 遠くの方に立てられたスピーカーから、夕暮れ空に聞き馴染んだメロディがこだまする。

 西の空を見れば遠くの山へと日が落ちて、空を橙に染め上げていた。

 県外の大学に通う青年が故郷の田舎へ帰ってきたのは三年ぶりのことだった。久しぶりの帰郷に、何があるわけでもない小さな村をあちらこちらと見回っていればこんな時間だ。いつの間にかすっかりと空が様変わりしていて、青年はひとり、家路につく。

 どこか古ぼけた音色で村に響く音楽が、とあるクラシックの一節だと教えてくれたのは、青年がまだ少年だった頃、近所に住んでいた女性だった。

 清楚なワンピースが似合う白い肌に優しげな眼差し、鈴を鳴らしたような軽やかで澄んだ声をした彼女は、遠いところからこの田舎へ引っ越してきた人だった。外から人がやってくるのは滅多にないことだったから、彼女のすべてが珍しいものに見えた。

 彼女は礼儀正しい人だった。すれ違う人には必ず全員に挨拶をした。この村の古臭いしきたりに難色を示すこともなく、むしろ「とても良いお話ですね」と理解を示した。

 そんな風だから、彼女から声をかけられることを嫌がるような村人もいなかったし、よく出来た娘さんだ、と村人たちからの印象もすこぶる良かった。


 日が落ちてからは、時間が早回しにされたように夕闇が迫ってくる。

 水田の脇道を、向こう側から男性がひとり歩いてくる。人がひとりすれ違うのがギリギリのあぜ道だが、なかなかに歩く人間は多い道だった。

「もしもし、こんばんは」

 すれ違う間際、男性は頭の帽子を取ってそう声をかけてきた。薄闇で顔は見づらいが、その声は明るい。あぁ、懐かしいなと思う。

「もしもし、こんばんは」

 そのまますれ違おうと足を進めた青年の前で、男性が立ち止まる。何かおかしなことでもしただろうかと、一度下がろうとしたときだ。

「……もしかして歩くんか? 沢崎の!」

「はい。……あ、吉沢のおじさんですか?」

 懐かしい声に、思わず頬が緩んだ。

 近所に住んでいる吉沢夫妻は、幼い自分にあれこれと世話を焼いてくれた。彼らは子どもに恵まれなかったそうで、両親共働きで家を空けがちな両親に協力する形で、我が子同然に可愛がってくれたのだった。

 それでもさすがに高校に入ってからは会うことも少なくなり、思えば県外の大学に通うことは伝えていなかったように思う。とはいえ、ここは小さな村だ。人々の出入りなどは皆の貴重な話のタネ。自分が県外の大学へ向かった、ということは既に知っているらしかった。

 勉強は順調かと問われ、どうにかやってますと無難な言葉を返せば「立派になったなぁ」と肩を叩かれた。笑う顔は、記憶にあるよりも少しシワが多い。

「ご両親も元気だよ。早く顔を見せてやるといい」

「そうします。おじさんはどこへ?」

 彼が向かう方向は、家とは反対方向だった。この村に夜遊べる場所は少ない。まったくないわけではないが、記憶の中では飲み歩くような人ではなかった。

 尋ねられた男性は少し柔らかく笑った。

「爺さまの顔を見にな。毎週この曜日は向かうことにしてんのよ」

 独り暮らしの長老は、村の入口あたりに住んでいる。矍鑠かくしゃくとした人物で正確な年齢もいまいち想像できないのだが、独り暮らしは何かと大変だろうと村の者たちが代わる代わる訪ねているそうだ。もっとも、介護というよりは晩酌仲間、という雰囲気の団欒になるのが常だという。

 それならあまり待たせても良くない、と話の区切りに青年は会釈をした。

 また折が合えばうちにも寄ってくれ、と男性は告げ、ふたりは細いあぜ道をすれ違った。


 懐かしい顔に少し肩の力が抜けて、青年――沢崎歩は帰路につく。

 この村では、すれ違う時や呼び止める時など、必ず「もしもし」と最初につける風習がある。どうやらこれはこの村だけの話らしい。県外で同じように声をかけたら変わったやつだと笑われた。「もしもし」とは電話の時くらいしか使うことがないそうだ。そこで初めて、この声かけが変わった話だったのだと知った。

 他とは違う行動には、何か必ず理由があるものだという。それならば、きっとこの声掛けにも何か理由があるのだろう。思えば誰も、この風変わりな挨拶の理由を教えてはくれなかった。

 今誰かに、それこそ親に、隣人に、あるいはあの綺麗な女性に聞いたなら、その理由を答えてくれるのだろうか。

 そんなことを考えながら、懐かしい家路を辿っていく。ちらほらと新しい建物が立っていたり空き家が増えたりはしていたものの、基本的な道や川は変わっていない。

 実家まであと少しのところで、窓が小さく金属屋根の家が一軒見えた。古風な瓦屋根の家が多い中、近代的な家はこの村ではここだけだった。田畑に囲まれた中では少々浮いて見える。自然と足が止まった。

 かつて、歩に様々なことを教えてくれた女性、詩織はまだこの屋敷に住んでいるのだろうか。

 窓には明かりがついていたが、少し広めの庭のおかげで、中の様子は分からない。

 歩は再び帰路を歩む。実家に帰れば両親がいる。そこで話を聞いてみるのもいいだろう。


 山道に近い一軒家の引き戸に手をかける。昔と変わらぬカラカラという音に郷愁を感じる頃には、淡く妖しく、そしてなにより美しい黄昏は姿を消していた。

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