第11話 【五輪が終わる】SFPエッセイ211
いきなりだが、みなさんは「アキレスと亀のパラドックス」のことはご存知だろうか。最近しばしば、私は「アキレスと亀のパラドックス」を思い浮かべる。よくご存知の方には申し訳ないが、知らない人も大勢おられると思うので、しばし「アキレスと亀のパラドックス」の解説にお付き合いいただきたい。
アキレスというのは、足が速いので有名な、ギリシャ神話に登場する英雄の、あのアキレスである。滅法足が速いので有名である。ホメーロスの叙事詩『イーリアス』では「駿足のアキレウス」として登場する。不死身の英雄として大活躍する。唯一の弱点がかかとのちょい上のところだったということで、アキレス腱なんて言葉の元にもなっている。ちなみになぜアキレス腱が弱点なのかというと、母親がアキレスを不死のからだにするため冥府の川にどぼんとつけたときに、かかとのあたりを持っていたので、そこだけに不死身にできなかったためだそうだ。
うろ覚えで書いているので、正確にはちょっと違ったかもしれないけれど、まあ、だいたいそんな話だ。
亀というのは亀である。のっそりのっそり歩くあの亀である。訓練生を教官が「のろまなどん亀め!」みたいに罵るような比喩ではなく、背中に甲羅を背負っていて水の中をスイスイ泳ぎ回り、天気のいい日には岩の上で甲羅干しをしているあの亀である。危険が迫ると頭と手足と尻尾を甲羅の中にしまいこんで隠れてしまうあの亀である。イソップ寓話の「ウサギと亀」で足の遅いものの代表として出てきたのと同様に、ここでも足の遅い代表として登場する。
さて、誰が考えてもアキレスと亀が徒競走するとアキレスが勝つに決まっている。常識的にはそうだ。ところが「アキレスと亀のパラドックス」においてはそうはならない。どういうことか。
亀が先行している情景を思い浮かべてほしい。亀がたとえば300m先にいる。これを地点Aとする。アキレスは後方から亀を追って走っている。駿足で走っている。たった300mだ。アキレスの足なら一気に追いついて追い抜かしてしまうだろう。あなたはそう思うだろう。でも思い浮かべてみてほしい。アキレスが300m走って亀がいた地点Aに着くと、亀は少し先の地点Bに進んでいる。次にアキレスが地点Bに着くとまたしても亀は先の地点Cに進んでいる。
これは無限に繰り返すことができる。アキレスが地点Cに着けば亀はその先の地点Dに、アキレスが地点Dに着けば亀はその先の地点Eに……と何度でも同じことが繰り返される。そしておわかりのように、何回繰り返しても亀は常にアキレスよりも先の地点にいるのだ。このプロセスは永遠に繰り返すことができる。言い換えればアキレスは決して、永遠に亀に追いつくことができない。
なぜだ? アキレスはあんなに足が速いのに! そして亀はあんなに歩みがのろいのに! どうしたアキレス。なぜ亀に追いつけない?
というのが「アキレスと亀のパラドックス」である。これもうろ覚えで書いているので、正確には違うのかもしれないが、まあ、だいたいそんな話だ。ここまでを読んで素直に「あれ? なんでだ? なんでアキレスは亀に追いつくことさえできないんだ?」と驚いてくれる人がどのくらいいるのかわからないが、いくらかでも驚いてくれる人がいたら、ここまで言葉を費やして解説した甲斐があるというものだ。
さて。
さてさて。
さてさてさて。
五輪である。五輪が近づいている。もう何百日を切った! なんて感じで早くもカウントダウン体制に入ってきている。遠足のようなイベントでもそうだが、だいたいこういうのは始まるまでが盛り上がる。「もういくつ寝るとお正月」なんて言っている時間が一番楽しい。お正月になったらもうお雑煮を食べて初詣に行ってバタバタしているうちにあっという間に三ヶ日が過ぎてしまう。
誰だったかが「2年後に五輪が来るということは、2年後に五輪が終わるということだ」なんて書いていて、それを読んで私は「おやおや。なんて意地の悪いことを言う人なんだろう!」と仰天したものだが、でもまあそれはたんたんとした事実でもある。2年後の今頃には、もうすべての関連イベントが何ヶ月も前に終わってしまっている。「五輪が」なんて言っても「何をいまさら」なんて、話題の賞味期限も切れてしまっているような時期だ。
そう。
五輪がやって来る!
ということはとりもなおさず、
五輪が終わる!
ということなのだ。
4年に1回の五輪がやってくる。それまでワクワク感をぞんぶんに味わおう。それはそれで大変結構なことだ。だが、五輪が終わった後のことについて何も考えないのはちょっと隙だらけではないだろうか。遠足の前日が永遠に繰り返され、「もういくつ寝るとお正月」と歌う年末が永遠に続くようなSF的世界ならいいが、そうではない。遠足当日はやってくるし、お正月もやってくる。過ぎれば日常が待っている。
遠足とお正月の後の日常は予想がつくが、五輪となると少々話が違う。歴史的な建築物をいくつも壊して、新たなレガシーを謳う建築物を作り、新たな道路を通すために区画ごと再開発して、外国人観光客を当て込んだホテルや商業施設を作り、街の風景を一変させる。イベントとして盛り下がらないようにと動員をかけたり、過酷な気象条件で犠牲者が生まれないようにとさまざまな制度を変更したり、要するに異例の特例が次々に設けられて期間中にピークを迎える。
そしてある日それが一気に終わる。閉会式をもって一気に終了する。開催期間を盛り上げるための装置が一気に取り払われる。
防災に関わる私個人としては、それはそれで歓迎したい。そうなればようやく労働力や資材が、本来向かうべきだった被災地に戻っていくだろうと思うからだ。けれども多くの大会関係者はハシゴが外された状態に陥るだろう。人口が減少し高齢化が進む社会で、レガシー施設を運営し成功させるのはなかなかの手腕が必要だ。予算を遥かに上回って投入された穴埋めは納税者にのしかかってくる。五輪で儲ける人や企業はそれでも構わないのだろう。けれど、全く何の恩恵も受けられず、縁もなければ関心もなく、何ら関係なく過ごした人々にも負担だけは全員に容赦なくのしかかってくる。
ここで冒頭の「アキレスと亀のパラドックス」に戻る。あのパラドックスの要点は何かと言うと「ある時点以前の話しかしていない」ということだ。「同じことを無限に繰り返せる」と書いた。でもそれは無限に時間が過ぎることは意味していない。そこで扱えるのは「アキレスが亀に追いつく前の時間」だけなのだ。
アキレスが地点Aに着き、地点Bに着き、地点Cに着き、ということを繰り返しても、時間軸上はある時点より先には進まない。限りなく「アキレスが亀に追いつく時点」に近づくもののそこには達しない。そこから先の世界を扱っていないのだ。早い話、「アキレスと亀のパラドックス」は「アキレスが亀に追いつく時点より前には、アキレスは亀に追いつけない」という当たり前のことを描いているだけなのだ。
1940年。東京に初めての五輪がやってくる。
私だってワクワクしている。世界一足の速い現代のアキレスを見るのも楽しみだ。世界一高く飛ぶ人、世界一銃撃がうまい人を見るのも今から楽しみだ。けれど、時間が来れば五輪が開催される。そして終わる。私たちには五輪が終わった後の世界が続く。アキレスはいつか亀に追いついて、追い抜かすのだ。追い抜かした後のことも考えておかねばならないのだ。
※【参考】1940年東京オリンピック
https://ja.wikipedia.org/wiki/1940年東京オリンピック
(「【五輪が終わる】」ordered by Mari Kambayashi -san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・2020年東京オリンピック・2020年東京パラリンピックなどとは一切関係ありません。
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