第7話 【体重100kgのモデル】SFPエッセイ207

【体重100kgのモデル】世界が彼女を待っていた。モデル界に現れた真の大物。遠くからだって一目でわかる。他のモデルより断然目立つ。スクランブル交差点にいても一瞬で見つけられる。おまけに彼女はスタイル抜群。身長225cm、体重100kgのモデル。 #140SFP


   *


 昨夜シシトウを食べていて「大当たり」が出た。全部で10本ほどあったかどうか。最初の1本目で「当たり」が出たので、これはシシトウではないのではないかなどと言いながら食べ進めたのだが、その後はなんてことのない甘唐辛子で、やっぱりシシトウだったか、最初のが偶然だったのかなどと話していたのだが、今度は家人が引き当てて「これはもう食べられない」と放棄するので「何を大袈裟な」と残りをもらって食してみたら大当たりだったわけだ。辛いを通り越して痛い。味の感想などなく出るのは咳と涙ばかり。喉の粘膜が焼け爛れる。通過した食道の経路がわかる。おさまった胃の中での所在地がずっと緊急信号を放っている。そんな感じだ。おかげで今朝もお腹に違和感が残る。


 それはまあいいとして、シシトウに辛いのと辛くないのがあるのはなぜなんだという話になった。みなさんはご存知だろうか? これまであまり考えたこともなかったのだが、そもそも辛いシシトウは事前に見分けられないのだろうか。たとえば「この株はまるごと辛い、この株はまるごと甘い」なんて具合なら、簡単に区別がつく。あるいは1株に1つ、先端のシシトウが辛いとか、地面に一番近いシシトウが辛いとかいうならば、選り分けることもできるはずだ。「辛いシシトウ、甘いシシトウ」と別々に売ることもできる。でもそんな話は聞いたことがない。あくまでも外見上は似たり寄ったりのシシトウたちの中にまれに暴れん坊が潜んでいる。「食のロシアンルーレット」の異名の通り、食べてみるまでわからない。


 そう考えると、生産者にも区別がつかないと考えざるを得ない。わざわざ何本かに1本、辛いのを忍ばせている可能性もあるが、そんな面倒なことをするとも思えない。そんな話をああでもないこうでもないと話した挙句、Google先生にお出まし願っていろいろ調べてみたが、書いてあることはまちまちだ。だいたい10本に1本くらいと書いてあるサイトがあれば、30〜50本に1本程度とかいてあるサイトがある。猛暑や水不足などのストレスがかかると辛くなると書いてあるサイトがあれば、受粉が不調なものが辛くなると書いてあるサイトがある。果実の形が(そう、あれは果実なんですよ)曲がっていたり、小さく貧相だったりすると辛いという説があるかと思うと、実際に買ってきてよりわけたらまっすぐなものの中に辛いものが何本もあって、曲がっている奴の中には辛いのが1本もなかったなんて実験結果も載っている。


 早い話、定説はない。だから我々はシシトウを前にしたらロシアンルーレットを覚悟するしかない。


 ここでまた思うのは、ではロシアンルーレットしたくない人はシシトウを食べないんだろうかということだ。早い話、辛いものが苦手な人は、何本かに1本混じっている「当たり」を恐れるあまり、シシトウを買ったり注文したりすることがないのだろうか。なんだかもったいない話のようにも思うが、まあピーマンなり万願寺唐辛子なり、代わりになるものはいくらでもあるからいいのかもしれない。


 だとすると、ここでさらに思うのは、シシトウはやはりそのロシアンルーレット性こそが商品価値であり、シシトウを選ぶ人はそもそもロシアンルーレット性を「込み」で愛好しているとのではないかということだ。これはなかなか面白い仮説ではなかろうか。ロシアンルーレット性を好む人の中には辛いものが得意な人も苦手な人もいるはずだ。辛いものの好き嫌いは関係ない。


 そこで思い出すのが「当たり」「はずれ」という言葉だ。辛ければ「当たり」、辛くなければ「はずれ」という意味だ。一方、昨夜の我が家においては「大当たり」のあとのシシトウを一口かじるたびに「セーフ」と言っていた。この場合、辛いのは「アウト」ということになる。まるっきり意味は逆なのだが、そこで「当たり」になるのも「アウト」になるのも実はどうでもいい。次の1本は辛いか、辛くないかという緊張の一瞬、ロシアンルーレットの引きがねをひく直前のスリル、そのプロセスこそが肝心なのだ。


 そのプロセスを楽しいと思える人はゲームに参加できる。楽しくない、心臓に悪い、そもそも辛いものは一切口にしたくもないという人は、そのゲームとは無縁になる。どっちの人生が幸せというほど大袈裟なことではない。辛いもので粘膜をひどく傷つけて、その後の人生ずっと食事がうまくできなくなるような人もいるだろうから、無理やり付き合わせるような話でもない。


 だからシシトウの話はここまで。


 言いたいのは、なんでも遊びにできるといいなという話だ。体重100kgのモデルと聞いて、とても太った人を想像したり、とても太ったモデルにも需要があるんだろうなと想像したりするのもいいし、身長が225cmあれば、かなりすらりとしたフォルムになるかもしれないなんて想像したりするのもいい。多くの人が太ったモデルを想像するだろうと予想して、その裏をかいて「とても背の高いモデル」というオチを用意するのは、いわばサービス精神だ。


 140文字のSudden FictionProject(以下「#140SFP」)作品の多くに「クイズ」や「なぞなぞ」、「あいうえお作文」をはじめとした言葉遊び、冒頭の作品のように短い中でもどんでん返しのあるものを書いている理由は、ことばで遊ぶということを面白がってほしいからだ。聞き手や読み手となる子どもたちが、ことば遊びの作品をもっと聞きたい、読みたいと思ってくれれば御の字だし、ましてや自分でもつくってみたいという子どもが出てきてくれれば最高だ。


 要するに遊びの提案なのである。ずばり避難所などでできそうなことば遊びのゲームを提案する作品を書いたこともある。こんな感じだ。


【45.お題】おもちゃがなくても絵本がなくても雨が降っても大丈夫。お題は最高の遊び道具さ。お題で始まるしりとりできる、ダジャレも作れる、絵にかける。おはなしを考えたり、歌にしたり、いろんな遊びができるんだ。ひとりでも誰かとでもやりたいように遊んじゃおう! #‎140SFP


   *


 子どもたちにしてみると(多くの大人たちにしても)全く予期せぬ出来事がいきなり起こるのだ。ある日突然住み慣れた家を離れることになる。川の堤防が切れて水が溢れ出して家が、というか街全体が水に浸かってしまう。だから家に住み続けられなくなる。家を巨人がつかんでガタガタと揺すって壊そうとするような恐ろしい体験の後、家の中が無茶苦茶になったり、建物が壊れかけたり、傾いてしまったりして住み続けられなくなる。電気もこないし、水道管は破裂して道路に水があふれる。ガス漏れも怖い。家に住めなくはないが避難所に行こう。そんなこともある。


 だだっ広い空間に、知らない人々とひしめきあうように共同生活をし、食事は冷めていて食べたいものを選ぶこともできい。ぐっすり眠れないし、大人は殺気立っている。その辺で遊んでいなさいと言われても、遊び場もなければ遊び道具もない。そんな場所で何日も何週間も暮らす時、毎日ほんの1分でいいから大人と子どもが交流できる作品として「#140SFP」のシリーズは始まった。


 その1分で仕入れた遊び方で、次のお話までの時間を少しでも面白く過ごすネタになればと、遊びの提案を盛り込んだ。ぼくの作品なんかよりもっとずっと面白いクイズを、ゲームを、どんでん返しのものがたりを、子どもたちが作ってくれればもう言うことはない。大丈夫。きみたちならきっとできる。人間は、シシトウひとつでひとしきり盛り上がれる生き物なのだから。


(「【体重100kgのモデル】」ordered by 菊次郎-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・夕食などとは一切関係ありません。

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