第3話 【変わらないところがつぼにはまって無茶苦茶おかしい】SFPエッセイ203
【変わらないところがつぼにはまって無茶苦茶おかしい】幼馴染のタカナシくん。平気で先生に「そこまちごうてるで」とか言うし、そのくせ先生にかわいがられるし、オリコウサンか思たらアホなことするし、変な子やと思てたけど、米寿の会で久しぶりに会うたら変わらんかった。 #140SFP
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世の中には、どこからどこまでも嘘っぽい文章という代物があって、そういうのにいきあたると読んでいるだけで胸糞悪くなる。
書いてある内容が間違っているわけじゃない。むしろ、読めばけっこうまともなことを書いていることが多い。ちょっとした人生訓とか、ちょっとした生き方のヒントとか、ネットでよくみる表現で言えばいわゆるライフハックとか。そういうものをまとめたブログ記事などでしばしば遭遇する。どこからどこまでも嘘っぽい文章に。
たとえばこんな具合だ。
曰く、まわりから尊敬される人は相手のことばを否定しないものだ。
とか、
曰く、今まで「すみません」と言っていた場面で「ありがとう」と言うようにしなさい。
とか、
曰く、間違えた時は言い訳するな、すぐ謝れ。
とか、とか、とか。確かに間違ってはいない。たぶんその通りなんだろう。書いてある文章の主張を要約すれば何も問題ない。にもかかわらずなんとも言えず嘘っぽいと感じる。
なぜそう思うのか。思うにそれはたぶん語り口の問題なのだ。最初に「嘘っぽい」と書いたが「うさんくさい」と言い換えてもいい。「薄っぺらい」というのも当てはまる。要するに「これを書いたやつは、書いた内容のことを本気では信じていないな」と感じてしまう、そんな文章なのだ。どこかから拾ってきた借りもののアイデアを、それこそ「スナフキンの名言集」とか、「人生を変えた一冊」的なまとめページあたりから拝借したアイデアを、水で薄めて引き伸ばしてまるで個人の考えのようにブログにまとめたという印象を受ける。
たぶん間違っていない。本人の中から出てきた考えではないのだ。
このところ「ものがたる」とはどういうことかを考える機会があって、そういうことがやたらと気になる。機会というのは、朗読の講師ということを拝命して2年目、今年はどんなテーマで取り組もうかと考え始めたことだ。そして「ものがたるとはどういうことかを追究してみたいな」と思いついたのだ。
作家さんから新作公演のための脚本の構想を聞いて、古今東西のさまざまな物語が登場すると知ったことがきっかけになっている。そして直感した。「これは、一種の物語論だな」と。いざそうして考え始めると、この新作はなかなか面白い構造になっていて、ものがたりも、公演のスタイルも、入れ子細工のように入り組んだことになっている。
まず、古今東西の物語がある。今回取り上げるタイプのものは、テキストとして定着する以前に、先行して口述で人から人に直接られていたタイプのものだ。つまり、まさしく「ものがたる」という行為から生まれた物語の原型たちだ。そして今回の脚本では、そういう「原型の物語」を元にして、物語の中にひそむ謎に迫る。つまりこれは「物語についての物語」なわけだ。
さらにそれを朗読するということで、「物語についての物語をものがたる」というのが、ぼくの担当する朗読チームのみなさんのミッションとなるわけだ。
朗読のワークショップというと、ごく一般的にはどんなものを思い浮かべるだろう? 基礎的な発声練習があって、朗読用のテキストを声に出して読んでみて、声量や滑舌について注意をしたり、アクセントやイントネーションを直したり、つっかえるところをすらすらよどみなく読めるようにしたり、「ここは感情を込めて」なんて言われてそれらしく力を入れてみたり声を張り上げたり、立ち姿や脚本の持ち方を注意したり、たぶんそういうイメージだと思う。
でもこれだけだと、冒頭に書いた「どこからどこまでも嘘っぽいブログ」みたいになりかねない危険性があるのだ。立ち姿はきれい。声もよく出ている。すらすらとよどみなく読めて、少し間をとったり、声を潜めたり張り上げたり、そういうことを上手にできても「何だこれは? やってることは間違いじゃないんだろうが、どこからどこまでも嘘っぽい朗読だなあ」というものがあるのではなかろうか。
さっきの入れ子構造の一番最初は、人が人に語り聞かせるものだった。その時語り手の手元には、目を落として確認するためのテキストはない。つまり言葉は全てその語り手の中にある。脳みそにあるのか、心臓にあるのか、腸にあるのか、そんなことは知らない。からだの細胞の一つ一つにあるのかもしれない。いずれにしても確かなのは、語り手のからだの外側に「台本」や「テキスト」はない、ということだ。ことばは語り手の中から出てきている。これは非常に大事なポイントだ。
ものがたる、ということの出発点は、自分のからだを使って、自分の中から出てくる声で、語るということだ。本当は声だけではない。音声以外の身振り手振りを使って、さらにいえば語り手だけでなく聞き手の息遣いや、ちょっとした視線のやりとりや、近くでパチパチはぜる火の音や、外から聞こえる風音や人か動物の立てる物音や気配なども総動員して、そして物語は聞き手に伝わり、聞き手の中でふくらみ、完成する。
とはいえ、「台本」を手に持たずにしゃべりさえすれば大丈夫、というものではもちろんない。
人から聞いた話を思い出し思い出し、口に出しているようでは、やっぱりその人のことばのようには聞こえない。丸暗記した文章を棒読みしているようなものは、いくら「台本」を持たずに喋ってもやはり嘘くさい。というか、語り手自身のことばではないことが丸わかりだ。そしてそういうことばには何の説得力もない。そんなことになるくらいなら、まだしも手にした「台本」に目を落としながらでも、十分に自分のものにしたことばを発してくれた方がよっぽどよく伝わる。
入れ子構造の最後は、まさしくこの状態で、本公演で満員の観客を前にして、朗読の出演者たちは「台本」を手に舞台に立ち、朗読をすることになる。その時に、聞き手にちゃんと伝わり、聞き手の中でふくらみ、完成する朗読をするためにはどうすればいいか。語り手の中に動機が必要だろう。そのものがたりを自ら語りたくて語るという動機が。
*
というような話を老人ホームの談話室でえんえんとしていたら、ぼくをホームの朗読教室の講師に選んだ天本冴子さんが「変わらないところがつぼにはまって無茶苦茶おかしい」と言って大笑いした。え? 何か笑うような話をしましたっけ?
(「【変わらないところがつぼにはまって無茶苦茶おかしい】」ordered by 天木 妙子 -san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・歌ダンなどとは一切関係ありません。
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