第5話 必要のない勉強の話


 今日は朝からクラスがザワザワしていた。四時間目に特別授業があって、外人が英語を教えてくれるらしい。

 ここは田舎だから外人自体が珍しいし、英語の授業を受けるのも初めてだから、みんなが緊張しているようだ。俺にとっては授業が早く終わって、給食になってくれた方がよっぽど嬉しいのだけど。

 四時間目のベルが鳴ると、担任の先生と一緒に金髪のネーチャンが入って来た。クシャクシャの金髪が肩に掛かっている。蒼い瞳に縁のないメガネを掛けていた。先生と同じくらいの背丈だから、女の人としてはかなりデカイ。

 ん? 良く見たらジーサンの家で会った、ネーチャンだった。


「皆さんコンニチハ」

 ネーチャンが挨拶した途端、クラスがザワめいた。ガキ大将のシンジが小声で、うぉ日本語喋った。とか呟いている。


「えー。みんな静かに。ダイアナ・クラール先生をご紹介します。先生はカナダから語学教師として、日本に来日されました。主に中学と高校で英語を教えていらっしゃいます。

 本日は特別授業として先生に、カナダのこと、日本に来た感想などをお話していただきます」


「皆さんコンニチハ。知っているかもしれませんが、英語でコンニチハはハローと言います。大きな声で言って見ましょう。ハロー」

 初めは照れてみんな大きな声を出さなかったけど、2、3回目には大きな声が出るようになった。ネーチャンはニッコリと笑った。

「グッド。大変上手です。フランス語ではボンジュール、中国語ではニーハオと言います。おなじコンニチハなのに随分ちがうでしょう?」

 その後、黒板に英語とフランス語と中国語で、コンニチハと書いた。中国語は漢字だから何となく分かるけど、後は全く分からない。


 言葉って不思議だな。一つの言葉で地球上の人が分かり合えたら、すごく楽なのに。リュカとだって直接話せたら、もっと色々聞くことがあるのにな。と思っていたら、ネーチャンが続けた。


「世界中には幾つもの言葉があります。日本語も、その一つですね。本当なら一つの言語でまとまっていれば、コミュニケーションが大変楽なのですが、現実はそうではありません。仕方がないから色々な言葉を覚えなければならないのです」

「ダイアナ先生は幾つの言葉を話せるのですか?」

 クラス委員の愛美が手を挙げて質問する。

「私は英語とフランス語、それから下手糞ですが日本語を覚えました。世界の公共語として最も採用されているのは英語。母国語として一番話されているのは中国語と言われています」


 なるほど。じゃあ英語か中国語を覚えればいいんだな。ボンヤリそんな事を考えていると、警戒心の解けてきた皆が手を挙げて質問し始めた。


「カナダってどんな所ですか?」

「自然が一杯で、雪も一杯ある所です」

「先生はカナダの何処から来たんですか?」

「ケベック州のモントリオールという所から来ました。人が一杯います」

「日本のことは、どう思いますか?」

「学生の頃から憧れていた国でした。アニメが好きだったから、日本語はアニメで覚えました」


 うおぉ。


 一気にクラスが盛り上がった。好きなアニメの名前や、食べ物の話を聞いているうちに、あっという間に4時間目終了のチャイムが鳴った。

「楽しい時間をありがとう。日本語を勉強して本当に良かったです。英語やフランス語では、貴方たちとお話しする事は出来なかったですから」

 それはそうだ。言葉って大切だな。みんなもそう思ったのか、しきりに頷いていた。


 その日、家に帰るとカーチャンにお使いを頼まれる。ジーサンの家に回覧版を届けに行くことになった。

 あばら家の扉としての役割をあまり果たせていない、玄関をガタピシやっていると、今日は何とか開けることに成功した。家の中から何か良い匂いがする。

「おお、ケンタ。お使いご苦労様」

 ジーサンが奥から出て来たので、回覧板を渡す。俺は鼻をヒクヒクさせた。

「何か良い匂いがする。なんだ?」

「今、ダイアナが珈琲を入れてくれたのだ。ケンタも飲んでいきなさい」

「コーヒーって苦いだろ。俺苦手なんだ」

 それでも俺はジーサンの家に上がり込んだ。


 台所ではダイアナ先生が小さなヤカンを持って、丸い容器に少しずつお湯を注いでいる所だった。覗き込むと黒い粉と泡が盛り上がってきた。インスタントコーヒーとは違う、良い匂いがする。

 ジーサンは冷蔵庫から、生クリームを取り出して泡立て始めた。

「ケーキでも作るのか?」

「あまり苦くない珈琲を作ってみよう」


 ダイアナ先生とジーサンのカップには、そのままのコーヒーが注がれた。俺のカップには沢山の砂糖と牛乳に泡立てた生クリーム、ほんの少しのコーヒーが入っている。

「良く混ぜて飲んでみなさい。口に合わなかったら残していい」

 俺は恐る恐る、コーヒーを飲んだ。旨い! 銭湯で飲んだコーヒー牛乳より上等な味がする。

「旨い。これなら飲めるぞ」

 みんなでカップを持って縁側に移動した。雑草だらけの庭を見ながらコーヒーを飲むと、少しだけ自分が大人になったような気分になる。


「ケンタ君は教室では大人しいのね」

 ダイアナ先生は微笑んだ。

「授業中は死んだように大人しいけど、休み時間や放課後は生き返ったように元気になるなって、よく先生に言われる」

 ジーサンは苦笑いしながら、俺の頭に手を置いた。

「今日はダイアナの授業を受けたのだろう。どう思った?」

「いつもの授業より面白かった。言葉って一杯あるんだな。カナダにも行ってみたくなったぞ」

 ダイアナ先生は嬉しそうに笑っている。

「クラス委員で勉強のできる愛美は、もう塾で英語の勉強を始めているって言ってた」

「語学は出来るだけ早い時期から始めた方が、人生にとって有益だ。勿論、年を取ってからでも勉強はできるが、中々覚えられない」

「ジーサンは、今も勉強しているのか?」

「今はロシア語を覚えている。年のせいで朝、覚えた事を寝る前には忘れてしまうがな」

 ジーサンは苦笑いをして、俺の髪の毛を掻き回した。


「学校以外で勉強するなんて、ゾッとするなぁ」

「そんなに難しく考えなくてもいい。草花を育てるのも、料理を覚えるのだって、立派な勉強だ」

「……今の生活科の授業みたいなものかな?」

「おおそうだ。もう少し上の学年になると、社会と理科に分かれる」

 俺は腕を組んで、顔を顰めた。

「トーチャンに聞いたことある。社会もまた、歴史とか地理とかに分かれるだろ? そんなに覚えきれないぞ。大体、昔の事を覚えて何の役に立つんだ?」


 ジーサンは少し困った顔をした。

「覚えて困る勉強なんて、ほとんどない」

「でも、さっき言ってたロシア語だって、それを話す人が近くにいなければ使う事もないから無駄だろう?」

 ジーサンは俺の目を見ながら、ゆっくり話した。


「例えば歴史の話をしよう。大昔は弓矢や罠で動物を捕まえて食べていた」

「そんなこと知ってるぞ」

「それから色々な発明をして、現在は大勢の人が飢えることなく生活できるようになった。今ならスマートフォンやコンピュータを使って、食べ物でも洋服でも何でも買い物をする事ができる」

「じゃあ、弓矢とかは必要ないんじゃないのか?」

 ジーサンは首を振った。

「それは違う。弓矢を使っていた昔の人も、スマートフォンを使っている今の人も同じ人間だ。中身だって、それほど大きくは変わらない」

「そうなのか?」

「昔の人が悩んでいた事や、困難を乗り越えた方法を学ぶ事は大切だ。歴史は現代の人間が、未来を歩く為にも必要な学問だ」

「???」

 難しくて良く分からん。でもダイアナ先生もウンウン頷いていた。少し考えてみると言って、俺はジーサンの家を出た。


 頭を抱えながら家に帰ると、じきに晩御飯になった。今日はトーチャンが帰っていて、ビールを呑んでいた。

「どうしたケンタ。難しい顔をして」

「……トーチャン。歴史の勉強って生きていく上で、必要なのか?」


 ブハッー!!!


 トーチャンは盛大にビールを吹き出した。飛沫が少し俺にかかった。

「何だよ。汚いな!」

「ケ、ケンタ。どうした大丈夫か!」

 トーチャンは俺のおでこに手を当てて、目を白黒させている。

「別に熱なんか出してないぞ。俺、そんなに変な事、言ったか?」

「イヤイヤイヤ。全然変じゃないぞ! ……一体どうしたんだ?」


 ちょっと納得できないけど、まぁいいか。ジーサンの家であった事を話した。英語やロシア語の話、コーヒーの話、歴史の話。上手く全部話せたかな。トーチャンは途中からビールを呑むのを止めて、何か神妙な顔をしていた。

「……そういう事か」


 そこに焼肉の乗った大皿を持って、カーチャンがやって来た。

「何だか賑やかだな。どうした?」

「カーチャン。歴史の勉強って生きていく上で、必要なのか?」


 ガシャン。


 大皿がテーブルの上で大きな音をたてる。おぉ、危ない。中身が危うく床にブチまけられる所だった。カーチャンは慌てて俺を抱きしめ、オデコとおでこを合わせる。俺はカーチャンを引き離す。

「熱は無いぞ。何でトーチャンとリアクションが同じなんだ」

「イヤ、だって」

 面倒だけどトーチャンに話した事を、もう一度話した。話を聴き終わったカーチャンは唇を尖らす。

「私も古文が大嫌いだった。下一段活用だっけ? け、け、ける、ける、けれ、けよって一体何なのよ!」

「何の呪文だ?」

「中学とか高校に行くと、習うのよ。馬鹿馬鹿しい。今の生活に全く関わらないじゃない!」


「ジーサンが言いたかったのは、そういう事じゃ無いと思うんだ」

 トーチャンはビールを一口呑んで、ゆっくりと話した。

「例えば今、話した古文で「源氏物語」という話があるだろう。今から千年以上も前のお話だ」

「あぁ、しょうもない浮気者の話ね。光源氏だっけ?」

 カーチャンは鼻を顰める。光源氏って何だ? トーチャンに聞くと、

「昔の恋愛小説みたいなものかな。本当は、もっと隠れた意味があるらしいけど今、話したい事はそこではない。昔の人も今の人も、人を好きになる事には変わりが無いと思うんだ。

 だからどうしたら好きな人を傷つけないとか、大切な人をどう守るかとか、そういう事は千年前も今も変わらない。人の心の動きは大きく変わらない。という事をジーサンは、言いたかったのじゃないかな」

「???」


 何を言っているのか良く分からん。でもカーチャンはそれ以上文句を言わなくなった。


……勉強って難しいなぁ。

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