愛しき

夜半、寝苦しさに目が覚める。

ビシャビシャの雑巾でずっと首元を触られている最悪の悪夢を見た。

完璧にぐるりと首を一周している雑巾で首を締めるなら締めればいいのに、ただただやわい力が加えられたり、緩められたりするだけ。その度に首元が濡れていくのだから堪らない。夢なら夢ならでさっさと覚めろと切に願うほどだった。

大変不快な気持ちで目を開けると、眼前に黒色の虹彩があった。バチリと視線が交差する。

「……は?」

何よりもまず驚きが勝る。何をやってんだと。

だって、そもそもいた部屋が違う。俺は寝る時に自室に戻ったし、お前はリビングのブルーシートの上だったじゃないか。どうやってここまで来た。這ってきたのか。廊下とか凄そう……違う。そうではなくて、ボロボロではないか。ぐちゃぐちゃではないか。どんな手段にしろ、ここに「移動」なんてして来た時点でそのやわらかいとろけた肉体が耐えられないことはお前が一番分かっているはずだろう。その上ベッドにまで乗り上げて、何で俺の首にまとわりついてるんだ。

ベッドも首周りもベタベタで、それに対してひたすらに困惑する。

何故?何故?何故、コイツは自壊しながらこんなことをしてるんだ?

首周りに添えられた手に一瞬、力が入る。息も詰まらない程度の弱さだ。しかし、それでもコイツにとっては自分の手を傷つけるのに十分で、すぐに指がとろける。

その動きでようやく気付いた。

「あ、殺そうとしてるのか」

殺されそうになってるのか、俺。

そりゃあそうだ。人の都合で作られて、生まれつき体は脆弱で思い通りになんてならなくて、失敗作なんて罵られ、振り回されて、「オリジナル」の元に連れてこられて、その「完璧な俺」が自由に生きている。

確認なんてしなくてもコイツに意思があって、俺を恨む理由が数え切れないほどあるのは明白だった。

コイツが俺を殺せないのは一重にその力すらとろけたにくにはないからだった。

「はは、俺が憎かったか?ごめん、簡単に殺されてやれれば良かったのにさ、人って思ったより頑丈だよな」

首元に置かれた手のひらをそっと包み込むようにして握る。間違えても加減に失敗して、潰したりしないように。幼い頃、宝物を両手に包んで父に見せに行ったことを思い出した。手の中の綺麗なものが壊れないように、壊さないように細心の注意を払っていたっけ。

あの時、俺は確かに父を愛していたし、父は確かに俺を愛していた。そこには親子の絆があって、愛があった。

離れたかったわけではない。決別には痛みを伴った。でも、父が愛し、形作った俺の人生と人格が父の非道を許すことが出来なかった。話し合いでは到底お互いの考えを共有出来なかったのだ。

我々はとっくの昔に相互理解を諦め、互いの道を違えることを了承した。

近くにいて傷つけ合うより、遠くで干渉せずにそれぞれの人生を生きていこうと誓った。

でも別に、俺の中から愛は無くならなかった。俺は離れていても確かに父を愛していた。

反して、父は別の愛を作ろうとした。クローンによる息子の再現。理想の息子の制作。

その相違を見せつけられたのが何より悲しかった。ならば知りたくなかったと子供の様に恥も外聞もなく喚けたら良かったのに。

目の前に俺よりも苦しそうな奴、出すなよ。そういうところだぞ、親父。おちおち怒れもしないじゃないか。

「……いいよ、殺しても。それでお前の気が済むのなら安いくらいだ」

ナイフでも取ってきてやろうか。それなら俺が固定してやれば何とか刺し殺せそうだ。

それとも、ただ俺が死ねばコイツは満足するのだろうか。なら、自分で死ぬのだが。


「……ぁう」

一人、仄暗い死へと思いを馳せていると掠れた小さな声が耳朶を打った。

消え入りそうで、よもや空耳を疑った。でも、空耳では決してなかった。

「ち、ぁう」

「え」

喋っている。口元が裂けて赤黒い肉を晒しながら、喉から血を吐きながら、とろけた「俺」が必死に声を出している。

「に、くい、ちぁう。こ、こ、じぉくだ、から」

俺の頬に血が跳ねる。

「くぅ、しいの、たすぇたぁ、だけ」

俺の瞼を肉の欠片が伝う。

「こぉして、たす、ぇたぁだけ」

憎い、違う。ここは地獄だから苦しいの助けたいだけ。殺して助けたいだけ。

「あーあ」

思わず抱きしめて、ぐちゃぐちゃでグロテスクに変貌した唇を奪っていた。甘く、やわい肉が口の中に広がって、とろけていく。じんわりと俺の手のひらの形に背中の肉がとろけていくのを実感する。

俺はナルシズムでも持っていたのだろうか。こんなにも「自分のクローン」が愛おしいなんて。だって、仕方ないだろう。

コイツ、人が愚痴を漏らしただけで自分の身体をぶっ壊してまで殺そうとしてくれたのだ。助けようとしてくれたのだ。

愛しくないはずない。

「……ありがとう。でも、俺は大丈夫だよ。ごめんな、お前の苦しいの多分俺は全然分かってあげられない。でも、苦しかったんだな。辛かったんだな」

俺は「俺」の首に手を添えた。

「もう、終わらせよう」

ぐっと力を込める。それだけ。それだけでこのとろけたにくには十分で「俺」の首は簡単に分断された。

グシャリと潰れた感覚が確かにして、俺と同じ顔は多数の肉片に変貌する。頭を失った体は崩れるように俺の上に倒れ伏した。

ぱたぱたと温かな液体が顔を濡らす。何か分からない液体が全身にまとわりつく。不思議なことに全く不快ではなかった。

最後の顔を思い出す。今から殺されると分かった時の彼の顔を。

とろけたような幸せを極めたみたいな満面の笑顔。

きっと、ずっと死にたかったんだ。誰も叶えてあげられなかっただけで。

「さよなら、俺はお前を愛していたよ。きっと、お前もそうだったんだろうな」

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