BusT
白江桔梗
BusT
ガタガタと揺れながら、バスは目的地へと走っていく。
その音が心地良かったのか、はたまた現実から眼を逸らしたかったからなのか、気づけば私は瞳を閉じて眠っていたようだった。
進行方向と同じ向きで椅子に腰かけている私は、起きてからはずっと窓の外を眺めていた。何を見つめる訳でもなく、ただ何となく、外に目を向けていた。外は真っ暗で何も見えないというのに。
……この世界は息をするには少し苦しかった。口を大きく開けて吸う酸素に味があるなら、それはきっと『不味い』と言うやつだろう。
――まあ、『美味しい』酸素なんて吸ったことなんてないから分からないけれど。
「次は、◆▼◆〜、◆▼◆〜」
バスのアナウンスは相変わらず聞き取れない。それは知らないバス停の名前だからなのか、はたまた脳が理解を拒んでいるかなのかは定かではない。
それとも、私が何もかもをどうでもいいと思っているから、意味の無い言葉の羅列に聞こえるのだろうか。
「……まあ、いいや」
小さくため息をついて、キャップを目深に被る。もう一度眠ろうにも、じっとりと汗ばんだTシャツは不快で、目を閉じることしかできずにいた。
「次は、▼◆期〜、▼◆期〜」
運転手のその言葉を皮切りに、突然、視界が明るくなる。突如明るくなった光景に目を眩ませながら、私は外を覗き込んだ。
そこは見覚えのある景色だった。見渡す限りの銀世界、よく登ろうとしては滑って怪我をした針葉樹が、窓を駆けて行った。
「次は、◆▶期〜、◆▶期〜」
紙芝居のように景色が変わる。そこは昔通っていた学校だった。
スカートを履いて、嬉しそうにする同級生たちを見て、胸がきゅっと苦しくなる。まるで、私は異端であるかと突き付けられているようで、息が、苦しくなる。
早く過ぎ去れ、早く過ぎ去れ。そう心の中で何度も唱えても、窓から見えるのは残酷な現実だ。『男になりたかったか』と言われると、別にそういう訳ではなかった。ただ、思春期という波に飲まれた瞬間に、男か女かを明確に区別するようになってしまったことへ、身体が、そして心が追いつかなかっただけだ。
「次は、▶〇期〜、▶〇期〜」
どくんと心臓が鼓動する。
棚引く金色のカーテン、昏れる夕日、教室には私と彼の二人。これでもかと誂えられた理想のシチュエーションに、私は呼び出されていた。
忘れるはずがない、忘れられるはずがない。
目を逸らしたくても、何かが頭を掴み、それを見ろと強要してくる。私の分岐点を、その眼に焼き付けろと脅してくる。
見たくない、見たくない、見たく――
「ずっと、好きでした。一人の『女性』として、貴女が好きです」
「……そう、なんだ」
目の前の私は、沈黙を続ける。驚いてとか、嬉しくてとか、そんな理由ではなかった。ただ、『友達として見てくれていた訳じゃなかったんだ』と、どこか裏切られたような、そんな感情だった。
そして、自分の素直な心を暴露したあの瞬間から、周囲の目線が変わっていった。
私が口を開く瞬間に、景色は暗転する。
「次は、〇◇期〜、〇◇期〜」
無駄に広い校庭、カルキで錆びた水飲み場、運動部の声援。暗闇を抜け、そこに似つかわしくないバスが横切る。ただ、誰一人としてこちらに振り返る様子はない。
窓に手をつき、私は目を細める。
気づけば公園で遊ぶ友達は少なくなって、気づけばスニーカーではなくヒールを履く子が増えていって、気づけば漫画ではなくモデルの雑誌を見漁る子が増えていって――私は一人取り残された。
いつからだっただろうか、全てが息苦しく感じるようになったのは。
いつからだっただろうか、いつの間にか一人称が変わってしまったのは。
……一体、いつからだったろうか。『私』になってしまったのは。
「次は――――」
初めから、学校をバスが走る訳ないなんて分かっていた。それでもきっと、間違いでは無いのだ。だって、このバスは
――だからこそ、私はこのバスに乗り込んだんだ。過去を見て、後悔しているのだ。
「降ります、ここで」
運転手の言葉を遮るように、震え混じりの声で手を挙げ、『僕』はそう、口にした。
「ここで、よろしいのですか」
「……良いんです。もう、否定しないって決めたので」
振り返らずに、そう答える。
バスの扉は閉まる気配がない。きっと、『私』なりの気づかいなんだろう。ただ静かに、『僕』が選択を変えることを待っている。
きっと、あのまま乗っていれば、社会的に普通と呼ばれる人間になれたのだろう。大衆の平均を逸脱して、『変人』というレッテルを貼られずに生きられたのかもしれない。
それでも――――これが『僕』の生き方だ。
ひらひらと手を振ると、ため息を吐き出すような音をあげて、バスの扉は閉まる。それは呆れにも、新たな道を歩む賞賛にも聞こえた。
「さようなら」
走り出したバスを見つめて、そう呟く。
久しぶりに外に出た気がして、大きく伸びをする。首や肩からはボキボキと音が鳴った。
大きく、深呼吸をする。そして、つい、笑ってしまった。
「まあ、多少はマシ……かな」
相変わらず変な味はするけれど、美味しいかなんて分からないけれど。吸えないこともない酸素を吸って、『僕』は歩き始めた。
BusT 白江桔梗 @Shiroe_kikyo
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