Day 15 なみなみ

 人魚酒を造るときには、瓶に酒をいっぱいに注いでおかなければならないという。

「そうしないと、人魚がわずかな空気を吸ってなかなか死なないのよ」

 祖母はわたしに噛んで含めるようにそう言った。

 祖母の家は古くからの酒蔵で、殊に人魚酒の製造で有名である。たくさん作れるものではない。せいぜい十年に一本出荷されるかされないかで、どんなに値段が上がっても順番待ちは絶えなかった。

 三メートルほどの大きな瓶に人魚を入れ、そこに酒をなみなみと注ぐ。人魚は酔っ払いながらゆっくりとおぼれ死ぬのである。万病に効果があると言われ、見た目も美しい人魚酒を求める人は多い。わたしにその製造を継がせたいのか、祖母はわたしに人魚酒を造る手順を何度も聞かせた。

 その年は特に上等の人魚が手に入り、祖母は「ここ五十年でいちばんいい人魚酒ができる」と喜んだ。わたしは「ここ五十年でいちばんいい人魚ってどんなだろう」と思い、ひとりで酒蔵に行ってみた。

 人魚は大きな瓶の中で、すでに酒を注がれてゆらゆらと揺れていた。確かに美しかった。全身が硝子でできているかのような繊細な美だった。近づくと人魚は眠そうに目を開け、わたしの方を見て笑った。途端、頭の中に何かをさしこまれたような気分になった。

 瓶の蓋には小さな穴が空いており、そこにコルクの栓が差し込まれている。酒を追加するための穴である。ふと気づくと、わたしはそこからストローを入れて酒を吸い上げていた。ほんの数時間人魚を漬けただけなのに、酒はすでに甘露だった。わたしは慌ててコルク栓を戻し、ふらふらになって酒蔵を後にした。こっそり酒を足しておこうと思ったが、人魚にあんなふうに微笑まれては到底できなかった。

 かくして人魚は死なず、酒蔵から逃れるために災いを呼んだ。突然の大雨によって引き起こされた土砂崩れで、三百年近く続いていたという酒蔵は潰れた。たまたま外出していたために難を逃れたわたしは、警察から祖母たちの死を知らされると共に、泥の下に埋もれたはずの人魚がどうしても見つからないことも聞いた。

 人魚は死んだのだろうか。それとも、生き延びて海へ帰っただろうか。わたしには後者のように思えてならない。

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