Day 9 団扇

 古い団扇を池に落とした。それが心のどこかでは程々にショックだったとみえて、夢を見た。

 池から白い服をまとった女性が出てきて、池のへりに立っているわたしに「あなたが落としたのはこの団扇ですか?」と団扇を差し出すのである。女性の顔は鯰に似ていた。

 わたしは団扇を眺めた。かつて中国土産でもらったような、しかしそれよりももっと見事な丸い団扇だった。鳳凰の刺繍が美しい。

「いや、こんな立派なものではないです。祖父がやってた酒屋の広告が入ったやつです」

「あらっ」池の女神らしき鯰顔の女性は、口元に手をあてた。「それは濡れてボロボロだったので、もう捨ててしまいました」

「ああ、そうでしたか」

「すみません、勝手に捨ててしまって」

「いえ、こちらこそ池にゴミを落としてしまってごめんなさい」

 私と鯰女神はぺこぺこと頭を下げあった。「いえいえ、お気になさらず」というわりに

はっきりした自分の寝言で目覚めると、もう朝になっていた。

 祖父の酒屋はもう二十年近く前に廃業し、祖父もすでに亡くなっている。あの団扇は遺品のようなものといえばそうで、だからまったく惜しくないと言えば嘘になる。とはいえ池に落としたのはわたしで、女神様が責任を感じる筋合いはやっぱりないのだった。


 くだんの池には実際大きな鯰がおり、たまにぬるっとした背中を見かけることがある。団扇の一件以降、わたしは鯰を見かけると目礼するようになった。

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