Day 6 筆
その画家は屋敷の一室に、人魚を一匹飼っていた。部屋というよりは牢といった方がよさそうな殺風景な部屋に大きな水槽を置き、なるべく光に当てないように、大切に管理していた。
人魚の髪で作った筆を使うのは、世界にただひとり、この画家だけと言ってよかった。画家は世界中を回って、彼にとってとびきり質のいい、筆を作るのにはこれ以上ないと思うような人魚を手に入れたが、その筆はとても余人に使いこなせるような代物ではなかった。ただしその人魚の髪で作った筆を使うようになってから、画家の絵には俄かに凄みが増した。彼の絵には、じっとりと濡れたような質感と迫力があった。
ところで人魚の水槽を掃除したり、朝夕に水温を測ったり、餌をやったりするのは、画家の弟子の仕事だった。水槽のおもてを拭いていると、人魚は何がおもしろいのか、口の大きなのっぺりとした顔で、弟子のうごきをじろじろと眺めた。
次第に弟子は人魚の世話が億劫になった。とにかく筆のために買い付けた人魚だから、あまり見てくれのよいものではなかった。かといって美しい声で歌うわけでもなければ、人並みにおしゃべりができるわけでもない。絹糸のような髪を水の中でなびかせながら、日がな一日のんびりと揺れている。弟子が姿を現すと、こちらの動きをいちいち見張る。あまり愉快なものではない。
人魚の世話には手間も時間もかかった。「先生がお前の筆など使うのでなければ、おれはもっと絵の勉強ができようし、先生ももっとおれの指導に時間を割いてくださるはずだが」弟子は人魚にそう愚痴をこぼした。人魚は鈍重な顔を向けつつ、それを聞いているのかいないのかすらわかったものではなかった。
「おれはお前のことが嫌いだよ」
弟子が言うと、人魚は緩慢に泡を吐いた。
さて、画家はすでに富と名誉とを十分に得ていたが、それに満足することなく、絵を描いて描いて描き続けた。そして、ある日ぱったりと心臓が止まって死んだ。彼が使っていた人魚の筆には、コレクションとして高値がついたが、実際に使おうとする者はいなかった。何しろ、たった一人の弟子であった男ですら使いこなすことができないのだ。
「父が飼っていた人魚ですが、あなたがお引き取りになりますか?」
画家の葬儀が終わった日、遺族である画家の息子が弟子にそう尋ねた。飼っていた人魚を海に放すのはご法度だ。だが専用の筆を作る以外に取り柄のない人魚をほしがるものもいないらしい。
暗に(引き取ってくれなければ邪魔で困る)と言われたような気がしたが、弟子は首を横に振った。ただ、最後に一度だけ顔を見にいった。やや薄汚れた水槽の中で、人魚はおそらく何も知らないのだろう、のっぺりした顔でのんびりと泳いでいた。
「お前のことが嫌いだったよ。じゃあな」
人魚は弟子をじろじろと見たが、何か思うところがあったのだろうか、別れ際に手を振るような仕草をしてみせた。弟子は水槽に背を向け、屋敷を出て二度と戻らなかった。
その後人魚がどうなったか、彼は知らないままである。
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