エピローグ
40.私たちは仕事で会話するしかない
世羅陽向は、京都にある実家に連れ戻されていった。
結局は自分の意思で帰ることにしたのだから、連れ戻された、という言い方は少し違うかもしれないが。
なんにせよ、あいつが世羅の家や母親とどう向き合うのかは、俺の知るところじゃない。
俺にはどうしようもないし、それはあいつ自身の問題だ。
世羅陽向がどうにかするべきことだし、俺には俺の問題がある。
「恭平君って、若い女だったら誰でもいいのかしら?」
いつもの新宿の喫茶店。
四人が座れるボックス席。
俺の向かいに座る氷室は、殺し屋みたいな眼光で俺を見ていた。
手元にあるホットコーヒーが、口をつけないまますっかり冷めてしまっている。
この店のコーヒーは熱くても美味くないが、冷めるとどうしようもないんだぞ。
「ちょっ、先輩。本物の氷室星夏、むちゃくちゃ怖いんすけど。下についた若手デザイナーが何人も潰れてるって本当だったんすね」
「それは知らねえけど、あんまり刺激するなよ」
「えー、なんすか。刺激って。こういう感じっすか」
俺の隣に座っている実相寺が、おもむろに腕を組んでくる。
「おい!」
「胸当たってます?」
「当たるほどの胸がないだろうがよ」
「ひっど。ありますー。ちょっとはありますー。あとでこっそり見せてあげますね」
「いいから手を離せ」
「恭平君」
氷室がテーブルを強く叩いた。
衝撃でカップとソーサーが、がちゃりと音を立てる。
テーブルに両手をついて、氷室は俺と実相寺を睨めあげてきた。
「君はきっと騙されていると思うわ。変な団体に勧誘されたり、絵画を買わされたり、お金を貢がされたりして、用済みになったら捨てられるのよ。肉体オルグなのよ? 正気に戻って」
「いやいや。底辺ライターの先輩はお金ないの知ってますから。そんなことなら別の男にしますよ」
「誰が底辺ライターよ。恭平君はたまにはいいコピーを書くわ」
「それは知ってるっす」
「私のほうが知っているもの」
変なところで張り合うな。
なんにせよ大したコピーなんて書けねえよ。
俺はそんなことを思ったが、口には出さなかった。
代わりに、すっかり冷めたコーヒーに口をつける。
案の定、どうしようもない味だった。
「私のほうが先に恭平君に声をかけたのだから、私に譲るべきだと思うけれど」
「それは関係ないじゃないっすか。先輩があたしと組んでやるって言ってるんですから」
「そもそもあなたは恭平君とどういう関係なのかしら」
「売れっ子になったら先輩を捨てた元カノが、気にすることじゃないと思いますけどー?」
「は? 勘違いしないで。私が恭平君に振られたと思っていただけで、ちょっとした不幸なすれ違いなのよ。本当だったら、結婚して、子どもが男の子と女の子の二人いて、家族で幸せな食卓を囲んでいた世界線だってあったはず。あったに違いない。お願いだからあって欲しい。子どもの名前だって考えているわ」
「早口怖いっす!」
俺は氷室と実相寺から依頼されていたコンペに、実相寺と組んで参加することに決めた。
恐らく勝ち目はほとんどないが。
ぐるぐる回っていた同じところから前に進むにはちょうどいいさ。
俺みたいな底辺ライターが、小賢しい理屈と達観で、いまを変えられないことを呑み込んだふりをするのはもうやめだ。
俺にはまだ、クリエイターとしてのエゴが残ってる。
世の中に評価されたり、社会に影響を与えたりする仕事を。
業界の誰もが知っていて、賞賛される仕事を。
ものをつくるってことは奉仕じゃねえんだ。
そんな低俗な理由こそが本質だし、業界の底辺にしがみついているやつらは、そんな想いを包み隠してひっそりと生きている。
だが、本当はみんな言いたいはずだ。
俺に、そんな仕事をやらせろ。
だから、俺はそうすることにする。
氷室星夏とやり合って、やり合うからには勝ちにいく。
「氷室、お前には悪いが、もう決めた」
俺がそう言うと、二人は言い争うのをぴたりとやめた。
同時に視線を俺へと向けてくる。
「ほらー、先輩はあたしと組むんすよ。どんな気分? クリエイターとして全然無名の女子大生に元カレ取られるの、どんな気分?」
実相寺が「ω」みたいな口になり、氷室を煽り倒していた。
「はあ……」
氷室は小さく嘆息すると、眼鏡を押しあげた。
表情はまったく変わらないクールなものだったが、数秒の沈黙を経て一言だけ口にする。
「死にたい」
「ちょっ、先輩。氷室星夏がむちゃくちゃ打たれ弱いんすけど?」
「こんな女のどこがいいのかしら。見た目も話し方もバカっぽいし、絶対に夏とかは海の家でウェーイってやるような人種で、サッカー部の男とつき合っていて、スクールカーストの上位にいて無自覚に陰キャを蔑んでいるに違いないしょうもない女のはずなのに。若さ以外、絶対に負けていないと思うのだけれど」
「あ、ウソウソ、むちゃくちゃ具体的な毒吐いてくるっす。しんどい」
実相寺は心なしかしょんぼりしていた。
心当たりがあるのか、ないのにそういう風に見られているのが辛いのか。
俺は頭をがりがりとやると、改めて氷室に言った。
「別に実相寺のやつがどうこうってわけじゃない。俺の問題だからな」
「本気で私とやり合いたいの?」
「まあ、そうだよ。お前がどう言おうと、俺は氷室星夏と釣り合うほど大したやつじゃない。そうじゃないと俺自身が納得するには、お前に勝つしかないだろうが」
「恭平君はさ、もっと仕事で我を出せばいいのにと思っていたけれど。こんなかたちで出さないでほしかったわ」
氷室は抗議めいた口調になって、唇をわざとらしく尖らせた。
手をつけていないコーヒーの近くに置いていた煙草の箱に手を伸ばし、静かに咥えてジッポーライターで火を点ける。
「だったらもう――」
紫煙を吐き出すまでの一連の所作が、恐ろしく絵になっていた。
「私たちは仕事で会話するしかない」
そう言った氷室は、少しだけ笑った。
「ようやくきちんと会話ができるね」
俺は何年間も氷室星夏の仕事を見てきた。
彼女からの言葉を一方的に受け取ってきた。
数年ぶりに再会したとき、それはずるいと彼女は言った。
俺が氷室星夏に語りかけるような仕事をしてこなかったからだ。
少なくとも、今回はそんなことにはならない。
「けれど、私はミジンコを仕留めることにも全力を尽くす女よ」
「ミジンコって言っちゃってるじゃねえかよ」
「でもこれですっきりするわね」
「なにが?」
「え? 私が勝ったら寄りを戻すということでしょう?」
「なんだそのびっくりどっきり情報はよ!」
「そういう流れだと思ったのだけれど? というか、そうしましょう。いま決めた。私が勝ったら寄りを戻す。私が負けたら、潔く引退して恭平君のお嫁さんになる」
「朗らかな笑顔で言うんじゃねえ」
「婚期を逃しそうなアラサーの発想にドン引きっす」
「なんとでも言って。私はそうする」
ひどい開き直りを見た。
氷室は灰皿に灰を落とすと、煙草の先を実相寺に向けた。
「言っておくけれど。実相寺真夏さん。あなただってすぐに、自分より若い女が現れる恐怖にのた打ち回るときがくるのよ」
「ちょっ、先輩。氷室星夏が預言者みたいなこと言ってくるんすけど」
「予言ではないわ。人生の先輩としての教訓よ」
「年増の言葉は重いっす」
「ぶっ飛ばすわよ?」
「もうお前ら、俺抜きで話してくれよ」
とにかく、先に声をかけてくれた氷室に断りを入れる仁義はとおした。
俺はもう一刻も早く帰りたい。
と、ポケットのなかのスマホが震えて、俺は反射的に取り出して画面を見た。
仕事のためにつくって、まったく活用していなかったSNSにメッセージが届いたお知らせだった。
その仕事というのは援助交際をしている女子高生を取材するという、弓削さんから回ってきた仕事であり、別のライターが本当に援助交際してしまって企画がなくなった仕事だ。
そう。
世羅陽向と出会って以来、使っていなかったアカウントだ。
画面には差出人が表示されており、俺は思わず変な声が出そうになった。
FJK吸血鬼ちゃん@draculina
#サポ希望
#ホ別10
#FJK
#都内
#裏垢
#NS
#基盤
#助けてください
#Sさん専用
連続して送られてくる。
FJK吸血鬼ちゃん@draculina
星夏さんはともかく、もう一人いる女の人は誰なのです?
「おおい!」
今度こそ俺は変な声が出たし、その場で立ちあがった。
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