39.自分の気持ちから逃げるなよ

「陽向様、いまなんと?」

「だから、わたしは桜井さんの血を吸ったので!」

「本当に?」

「もちろんです」

 俺の背後に隠れるようにしながら、陽向は言った。

「えっへん」

 えっへん、じゃねえよ。

 俺は陽向の言葉を否定しようとしたが。

 握った拳を戦慄かせる鹿島葵の雰囲気にぞっとして声が出なかった。

 底冷えする声で、彼女は言った。

「それが吸血鬼にとってどういう意味をもつのか。陽向様もご承知のことだと思いますが……!」

「と、当然です。吸血鬼が血を吸うのは、生涯でたった一度だけ――」

 陽向がなにか不穏なことを言っている。

 自分自身の言葉に、ぐっと息を呑むのがわかった。

「――本当に愛した相手だけなので!」

 俺はぎょっとして陽向を見た。

 なんだその吸血鬼ルールは。

 誰が制定したんだよ。

 勘弁してくれ。

「えへ」

 俺と目線が合った陽向が、あざとくはにかんだ。

 いますぐこいつを引っぺがして鹿島葵に渡してやりたい。

「はあ、陽向様。もう、本当に、はあ――」

 鹿島葵は鹿島葵で、俺と同じように勘弁してくれという感じだった。

 こめかみを押さえて、深い深いため息を吐いている。

「はあ、ちょっと胃薬飲みますね」

 彼女は手慣れた様子でジャケットからシガレットケースのようなものを取り出すと、そこに入っていた錠剤を何錠も口に放り込んだ。

 がりがりと噛み砕き、また深いため息を吐く。

 この人、抱えたストレスでいつか死ぬんじゃねえかな。

 なんとなく薄幸の宿命を背負っている気がするぞ。

「まったくもって――」

 鹿島葵が顔をあげ、鋭い眼光で俺を見た。

 そこから視線を陽向へと移す。

「家出したと思ったら、血を吸うくらいの男を見つけてよろしくやっているなんて――」

 一拍の間を置いて、彼女は言った。

「うらやま――けしからんです!」

 なんだか俺は、鹿島葵という女が仕事で相当な無理をしてキャラクターをつくっているような気がする。

 本当はただの幸が薄いオネーチャンなんじゃないだろうか。

「陽向様のビッチ! くそビッチ! JKは清く正しい交際をしてください!」

「はー、なので!? 誰がビッチやねん!」

「清楚ビッチ、陽向様は清楚ビッチです! 世羅の御当主にどう申し開きをすればいいか、見当もつきません! クビになる、私、クビになりますよ!」

「ママの言いなりの葵さんなんか、クビになったらええねん! 腹を切れ。スパッといますぐ腹を切れ」

「ひどい……!」

 言葉の応酬だと陽向の戦闘力は高かった。

 可愛い声して、むちゃくちゃなこと言いやがるな。

 俺は腕に掴まったままの陽向を見やり、鹿島葵と同じように深い深いため息を吐いた。

 誤解を解いて、鹿島葵が腹を切らなくていいようにしてやらないとな。

「陽向」

「はい?」

 俺は無造作に彼女の顔面を鷲掴みにした。

「お前は俺の血を吸ってないだろうがよ!」

「痛い痛い痛いです!」

 ぎりぎりと締めあげると、彼女はじたばたともがいた。

「吸ってねえよな?」

「ごめんさない。ウソです。吸ってないです。吸おうとしただけです」

 早口でそう言った陽向を解放してやると、彼女は不満そうに口を尖らせた。

「うう、暴力に訴えるの反対なので。わたしが変な快感に目覚めたら、桜井さんが責任取ってくれるんですか?」

「うるせえ!」

 俺は腕から陽向を引っぺがすと、ぽかんとしている鹿島葵に言った。

「聞いたとおり、俺はこいつに血なんて吸われてない」

「……いや、それはそうとして。陽向様にアイアンクローをするやつがあるか、桜井」

「いいんだよ。吸血鬼は頑丈なんだから」

「ひどいので!」

 俺は陽向の抗議を無視した。

 鹿島葵はなんとなく俺と陽向の関係性を察したのか、再び深く深く嘆息した。

「陽向様、お戻りになりたくないのはそういうことですか。血は吸ってはいないけれど、そういうお相手だと?」

「そ、それだけというわけじゃないし!」

 陽向は両手を腰に当てると、胸を張った。

 ピンチになった小動物が、自分を大きく見せる行為に似ている。

「わたしはもうあんな狭い世界にいるのはうんざりなの! 魔術師ギルド? 世羅の血統? そんなもの――」

 彼女は大きく息を吸い込んで、言葉と一緒に吐き出した。

「わたしの知ったことか!」

「その言葉、御当主が聞いたら卒倒しますよ。陽向様は文句のひとつも言わない、いい子だったではないですか。はあ、もう、はあ。胃が痛いです」

「パパが出ていってから、空気を読んでそうしていただけなので」

 こいつはこいつなりに、家に気をつかっていたらしい。

 そのストレスが結婚の話で限界に達したのは簡単に想像できるよ。

 だからって、家を飛び出すのはどうかと思うけどな。

「わたしは、パパみたいに自由に生きたい」

「むちゃを言わないでください」

 鹿島葵は静かに言った。

 文字どおり、駄々をこねる子どもを諭すように。

「いいですか、陽向様。あなたは世羅の一人娘で、まだ子どもではないですか。あなたのお父上のように、世界でハチャメチャ大冒険なんてできるわけないでしょう。世羅の家の庇護なくして、どうやって生きていくおつもりですか」

「それは――」

「この何日かは陽向様くらいの年齢の女の子には、いい冒険になったでしょう。あなたは聡明ですから、ご自分の立場もわかっておられるはず」

「でも――」

 淡々と現実を突きつける鹿島葵の言葉に、陽向は反論できない。

 そのとおりだからだ。

 吸血鬼だろうがなんだろうが。

 世羅陽向は家出してきた女子高生でしかなかったし、一人で生きていくのは現実問題難しい。

 陽向は助けを求めるようにして俺のほうを見た。

 俺になにかを期待するんじゃねえよ。

 社会人の冴えない男が、自分に好意をもってるJKを助けて二人で仲良く暮らすなんてのは。

 結局、夢みたいな無責任な話なんだからな。

「なあ、陽向」

 だが、俺はこいつに言っておかなきゃならないことがある。

 それは別に俺自身の言葉でもないし、信念めいたものでもない。

 ついさっき、実相寺のやつに煽られて、ようやく気がついた教訓みたいなものだ。

「逃げるなよ」

「?」

 俺の言葉に、陽向はきょとんとした顔になった。

 そりゃそうだ。

 このオッサン、なにを言ってるんだって話だ。

 だがまあ、聞けよ。

「ここでなにを言ってもはじまらねえ。お前が、その気持ちを言うべきなのは、家に戻ってからだ」

「それは、そうかもですけど、無理なので」

 ああ、そうだよな。

 勝手に無理だと思って。

 自分のなかで結論を出して。

 達観したふりをして、そのくせ本当の気持ちをずっと燻らせて斜に構える。

 そうして逃げ道をつくっておかないと、怖いからな。

 本当に無理だったとき、どうすればいいのかわからなくなる。

 成功も失敗もない、現状維持という停滞。

 俺はそうして、何年間も同じ場所をぐるぐると回ってる。

 いまもだ。

 陽向、家に戻らないか、家に戻って母親に従うかの二択じゃあな。

 お前もそうなっちまうぞ。

 俺は陽向と視線を合わせた。

 赤くない彼女の瞳を正面から見るのは、はじめてかもしれない。

「無理じゃねえ」

 自分でも驚くくらいに、腹の座った声だった。

「自分の気持ちから逃げるなよ」

「わたし……」

 陽向がか細い声をもらした。

 俺の言いたいことなんてものは、こいつもよくよくわかってるはずだ。

 自分自身のなかで、ずっと見て見ないふりをしてきたことなんだからな。

 俺のように。

 俺は陽向の頭に両手を添えると、そのまま引き寄せてごちんと額を当てた。

「ちょっ、あの……」

「陽向」

「はひ!」

「やりたいことをやればいい」

「……はい」

「俺はそうする」

 お前はどうする、とは言わなかった。

 それは彼女が決めればいいことだ。

 数秒の沈黙のあと、陽向はおずおずと言った。

「あの、桜井さん、近いので」

 その言葉で反射的に離れようとするが、逆にがっちりと両肩を掴まれた。

「おい!」

「家に戻って、わたしがやっぱり無理ってなったら、もう多分、二度と会えないと思うので」

 そう言った彼女は、なにかよくわからないが覚悟完了した顔になっていた。

「最後の思い出に血を吸わせてください! いいですよね?」

「いいわけあるか!」

「いいじゃないですか!」

「吸血鬼にとって生涯に一度なんだろうが!」

「そうですよ! 好き好き愛してる!」

「言葉の軽さよ!」

 俺が必死に抵抗していると、力任せにぐいっと後ろに引っ張られた。

 いままで黙って俺たちを見ていた氷室星夏だった。

 見れば陽向も、鹿島葵に羽交い絞めにされている。

「はいはい、私の前でイチャコラしないでくれるかしら」

「陽向様、軽挙妄動は慎んでください」

 二人は同時にそんなことを言った。

「葵さん、はーなーしーてー。わたしは、桜井さんの、血を吸う!」

「絶対ダメです。そうしたら彼は血族になってしまいますよ。取り返しがつかないではないですか。結婚前に血族がいるなんて前代未聞ですよ。そういうことは結婚相手にだけするものです」

「物騒なことを言いやがって」

「まったく。結婚だとか結婚だとか、放送禁止用語を連呼しないでくれるかしら。気が滅入るわ。ブライダルフェアにいくカップルを全員角材で殴りたい」

 氷室がぼそぼそとヤバいことをつぶやいていたので、俺は思わず振り返った。

「お前も物騒なこと言ってんじゃないよ」

「気にしないで。私の心の声が漏れただけよ」

「気になるよ!」

「気にしないで」

 真顔で言ってくるあたり、心底から思っていそうで怖い。

 氷室は肩をぶつけるようにして俺の隣に並ぶと、そっと言ってきた。

「話は終わり?」

「まあな」

「どういう心境の変化? あれは君が君に向けた言葉だと思うけれど」

「そんな大層なものじゃねえ。誰でも言える言葉さ」

 そして、ほとんどのやつが言わないまま生きていく。

 氷室は軽く肩をすくめ、それ以上はなにも言わなかった。

 腕を組んで俺より前に出ると、じたばたともがいている陽向と、それを羽交い締めにしている鹿島葵に言った。

「話は終わりだから。私のカレシを寝取ろうとしたそのビッチなJKを、さっさと連れ帰ってくれるかしら?」

「誰がビッチなので!」

「清楚ビッチなJK」

「言い直すのはそこじゃないですし! そもそも桜井さんは星夏さんの元カレじゃないですか。見栄を張らないでください!」

「べ、別にいいでしょう。寄りを戻すのだし」

 ちらりと見てくる。

 俺はきっぱり言った。

「誰も戻すとは言ってねえよ」

「え? 寄りを戻して結婚して、子どもは二人つくって、金沢の田舎で一戸建て買って、夫婦でフリーのライターとデザイナーで仕事をしながら、趣味でパン屋とかをやって、近所の人たちと笑顔でつき合いながら、たまにテレビとかの取材を受けるという将来設計はどこにいったの?」

「知らん知らん、どこにいくもなにも、最初から存在してねえよ! ってか、なんだその西田敏行がナレーションしてそうなテレビは!」

「ちょっとなにを言っているのかわからないわ」

「俺のセリフだよ! それは俺のセリフだよ!」

 どうして氷室のやつが困惑しているのか、まったくわからない。

 俺が地団駄を踏んでいると、

「桜井」

 ひどく同情的な声で、鹿島葵が言った。

「お前もいろいろと大変なのだな。なんというか、そう、胃薬いるか?」

 幸が薄い仲間を見つけたような顔をするんじゃねえよ。

 俺は大きく息を吸い込み、それをゆっくりと吐いた。

 まったく。

 どいつもこいつも。

「帰れ!」

 俺は叫んだ。

「とにかくお前ら、全員、一回、帰れ!」

「恭平君、そんな乱暴な言い方あるかしら」

「もっと感動的な別れ方があると思うので。やり直しを希望します」

「お前に言われなくても帰るぞ」

 女どもが口々になにかを言ってくるが。

 俺は無視した。

 自称・吸血鬼の女子高生と出会ったことで。

 俺の停滞していた人生が前に進むのだとしても。

 頼むから、一回ちょっと整理させてくれ!

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