38.とんでもないことをしでかしてくれたな
〈5T〉が入居する雑居ビルの狭いエレベーターが、一階に到着してぎこちなくドアを開いたとき、俺はぎょっとして言葉を失った。
先客がいたからだ。
ショートのボブカットに鋭い眼光。
パンツスーツを隙なく着こなした長身の女。
「意外なところで会うものだな。いや、意外でもないか?」
鹿島葵は澄ました顔で言った。
なにかの映画みたいに、エレベーターが開いた瞬間にサブマシンガンをぶっ放せるなら、俺はこの女の顔を拝んだ瞬間に迷いなくそうしていただろうぜ。
現代の吸血鬼が、そんなことでくたばるのかはわからないが。
「氷室星夏のマンションはもぬけの殻だったのでな。関係先を家探ししているというわけだ」
「そいつはご苦労なこった」
「そう。ご苦労なことなんだよ、桜井」
エレベーターのドアが閉じそうになるところを、鹿島葵が腕を差し込んで押しとどめる。
「〈5T〉という会社の事務所は空振りだったが。お前がここにいるということは、まんざら外れというわけではなさそうだ」
俺は小さく舌打ちして、エレベーターに乗り込むしかなかった。
放っておいても感応の魔眼とやらを使われれば、氷室と陽向がこのビルの空きテナントにいることはすぐにばれる。
「あんたの運がいいのか。俺の運が悪いのか」
「私の日頃の行いがいいからに決まっているだろう」
「ああそうかよ」
男運は絶望的に悪そうなのにな、と俺は思った。
ごすっ、と尻を膝蹴りされる。
「痛えな! おい!」
「いま、ものすごく失礼なことを思っただろう? 殺すぞ」
「お前らはあれだ、都合のいいときだけなんか察するのをやめろ! ニュータイプかよ!」
「いや、吸血鬼だが」
「知ってるよ、くそ」
蹴られた尻の痛みに顔を歪めていると、エレベーターはすぐに目的の階に到着した。
ドアがガタゴトと左右に開く。
二年前くらいまではスズキ・タナカ企画とかいう謎の会社が入居していたフロアだが、不況には勝てなかったのかいまは空きテナントだ。
「桜井」
鹿島葵が目で先にいくように促してくる。
俺は仕方なくそれに従うと、鍵が破壊された木製のドアを開けてオフィスに足を踏み入れた。
「……恭平君?」
という氷室の声がした。
「ああ、俺だよ」
と、俺は答えた。
暗がりに人影が見える。
「葵さん」
消え入りそうな陽向の声がした。
その声を聞いて、俺の背後にいた鹿島葵は少しだけほっとした雰囲気になった。
「探しましたよ、陽向様」
俺を制して前に出る。
「そろそろ世羅の家にお戻りください。御当主はじめ、みなが心配しています」
陽向はぐっと息を呑むと、俺のほうをちらりと見てから言った。
「心配しているのは、わたしではなくて世羅の家のことでしょう」
「陽向様を案じるのと、世羅の家の未来を案じるのは同じことですよ」
「だからってこの時代に政略結婚はないと思います」
「お相手はギルドの第一派閥、それも主流派の家柄ですよ。イギリスに留学してMBAも取得して、表の世界での将来性も抜群です。そのうえイケメンです。なにが不満なのですか。イケメンですよ?」
「そういうことではないので!」
陽向がぶんぶんと両手を振って地団駄を踏む。
俺は天を仰いで嘆息した。
氷室が手招きしているので、猫背になって歩いていく。
「陽向ちゃんって、そういう理由で家出をしたの?」
「ああ。とはいえ、最初は本人も半ば諦めてたみたいだったけどな。母親への当てつけと、家の言うとおりにする前の思い出づくりみたいなもんさ」
「ふーん。いまは少し違うみたいだけれど?」
「まあな」
俺は苦笑して、頭をがりがりとやった。
陽向がそうなったのは、俺にも少しは責任がある。
「あの子、恭平君のことが好きみたいよ」
俺は横目で氷室を見た。
どこから仕入れた情報だよ、と思ったが。
陽向から聞いた以外考えられない。
随分と仲がいいじゃないかよ。
「俺だってびっくりだよ」
「……」
「なんだよ」
「なんでもないわ」
ごすっ、と尻を蹴られる。
「痛えな! おい!」
今日は尻の厄日かよ。
俺と氷室がこそこそ話しているうちに、陽向と鹿島葵は距離を詰めてぎゃあぎゃあと言い合っていた。
「大体、顔でしか見てへんから、葵さんはいっつも男で失敗しとるやん!」
「はー!? 顔は重要! 顔がよければ大抵のことは許されます。正義です」
「しょうもな。そんなんやから、浮気されたり、お金せびられたり、実は既婚者やったりするねん!」
「ぐっ……それはもう過ぎ去った過去です。私は過去を振り返りはしません」
「過去と歴史から学ばんやつが、進歩するわけあるか! 葵さんは男運、一生ないままやわ! ヤケ酒飲んで肝臓壊して酷い目にあえばええねん!」
感情が昂ると陽向は関西の言葉になるらしい。
腕を組んで言い合う二人をぼんやりと眺めていた氷室が、ぼそりと言った。
「陽向ちゃん、むちゃくちゃ口が悪いわね」
「いや、あいつは割と口悪いぜ?」
「そうなの?」
「俺だって三流ライター呼ばわりされてるんだからな」
「それを言ったの、あの子だったのね」
俺は肩をすくめた。
言葉で殴り合うのは陽向のほうが強いようで、
「う……ぐす。陽向様、そこまで言わなくてもいいじゃないですか」
鹿島葵がなんとなく泣きそうになっている気がした。
そもそも仕えている相手に対して、本気で罵詈雑言をぶつけるわけにもいかないだろうが。
その点、陽向は容赦なくぶつけられるからな。
フェアじゃない戦いだ。
「んんっ!」
陽向は肩を落とした鹿島葵の姿に冷静さを取り戻したのか、わざとらしく咳払いをして間を置いた。
「とにかく――わたしは家のためになんかで戻りたくないので」
「陽向様。世羅の御当主、あなたのお母様も心配されていますから。一度、お顔を見せにお戻りになってください」
「それで戻ったら、今度は逃げられないように厳しく監視しておくというわけね。それが心配している娘に対してすること? そもそも心配しているなら、自分が探しにくればいいでしょう。葵さんや鹿島の人たちを使わないで」
「むちゃを言わないでください。あの方にはお立場もありますし」
「はいはい。立場、立場、世羅の家のため。娘をよくわからない男に差し出す。ママが心配しているのは、わたしじゃなくて家のことでしょう」
陽向は両手を腰に当てると、肩をいからせた。
母親への不信感はかなり根強いし、きっと色々なことがこじれてこうなってしまったんだろう。
こればっかりは、俺がどうこうできる問題でもない。
だが、彼女に家に戻る必要がないなんて無責任なことも言えない。
陽向は小さく息を吐くと、ぼそりと言った。
「大体、冷静に考えるとママはずるいので」
「……なぜです?」
「自分は好き勝手にパパと恋愛して結婚したくせに!」
そこかよ!
「えぇ……? そこですか?」
鹿島葵は俺と同じことを思ったようだった。
「当時は御当主のお父様――陽向様のお祖父様も健在で、世羅の家もまだ魔術師ギルド内で存在感がありましたから。それにお祖父様は娘に甘々でしたので、陽向様のお母様は自由奔放に育ったのですよ」
「ほら、やっぱりずるい!」
「ずるいという言葉が適切かはわかりませんが」
頬を膨らませる陽向に、鹿島葵は嘆息した。
彼女の身に纏う雰囲気が、素人の俺ですらわかるほどに変化する。
「そういったことは、直接お伝えになっては?」
それは陽向も感じたのか、明らかに身構えてあと退った。
「結局は力づく?」
「私は場合によってはそうしろと命じられていますし、陽向様がここでなにを言ったところで意味はありませんよ。ガス抜きにはなりますけどね」
陽向に好き放題言わせてやったのも、鹿島葵のせめてもの優しさだったのかもな。
二人は立場を除けば、友人や姉妹みたいな関係なのかも知れない。
だが、宮仕えは辛いってところか。
「鹿島」
俺は彼女の名前を呼んだ。
その声に反応して、鹿島葵がぴたりと動きをとめる。
「ちょっとだけ陽向と話をさせてくれないか?」
「いまさら、しゃしゃり出てくるな、桜井」
「別にあんたの邪魔をしようってわけじゃない。そもそも俺が、あんたをぶっ飛ばして陽向を助けられるヒーローに見えるか? 世羅陽向にたまたま出会った、ただの三流ライターだぜ?」
俺との会話に鹿島葵が気を取られている隙に、陽向がこちらに向かって駆け寄ってきた。
そのまま俺の腕を取り、
「桜井さん!」
がっちりとしがみつく。
コアラかよ、お前はよ。
「葵さん、わたしは世羅の家のために結婚なんて絶対しません。なぜなら――」
「おい!」
俺は猛烈にいやな予感がして、慌てて陽向の口を押さえようとした。
だが、間に合わない。
「わたしは桜井さんの血を吸ったので!」
陽向の高らかな宣言が、がらんとしたオフィスに響いた。
「……」
鹿島葵は一瞬だけ沈黙し、
「は?」
間の抜けた声をもらした。
そして。
「は――――っっっっ!?」
目を見開いて絶叫した。
その反応は俺が想像していたよりも遥かに大きかった。
吸血鬼にとってそれがどれほど重要な意味があるのかがよくわかる。
「桜井、貴様――」
鹿島葵がほとんど幽鬼みたいな表情になって、底冷えする声で言った。
「とんでもないことをしでかしてくれたな」
殺気だ。
なんの武術の心得もない俺ですら、鹿島葵からの殺気を感じる。
動物としての本能が目覚めでもしたってのかよ。
全身に悪寒が走って、ちびりそうだ。
だが、ちょっとまってくれ。
そもそも俺は、血を吸われてねえよ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます