37.探しましたよ、陽向様

「星夏さん、本当に大丈夫なんですか?」

「大丈夫よ。このビル、セキュリティはガバカバだから」

 昭和の時代に建てられた新宿の雑居ビルには、非常灯すらなかった。

 彼女がかつて散々に世話になった、弓削晋作の〈5T〉が入居しているフロアの一階下である。ビルのつくりは同じで、狭いエレベーターをおりてエントランスの右手に入居している会社がある。

「ここは以前、スズキ・タナカ企画という謎の会社が入居していたの」

 星夏はスマホのディスプレイの光で、いまはなんの社名も掲げられていないドアを照らした。

 彼女がこのビルと疎遠になった数年間で、空きテナントになっていた。

 いまどき珍しい木製のドアで、申しわけ程度に鍵がかけられている。

「なんの会社です?」

「さあ。弓削さんが言うには、CIAのペーパーカンパニーだそうだけれど」

「はー、なので?」

「冗談よ。私だって信じていないわ――っと」

 力を込めてドアノブを回すと、鈍い音とともにあっさりと鍵が開いた。

「まあ、こんな感じでね、このビルは鍵がなくても入れるの」

「いやいや、えー、いやいや」

 戸惑う陽向をよそに、星夏はずかずかとかつてのスズキ・タナカ企画に足を踏み入れた。

 星夏は眼鏡を押しあげると、暗がりに目を細めた。

 徐々になれてくる。

 がらんとしたオフィスは奇妙に広く感じられ、少なくとも一年以上は使われていないであろうカビ臭さが鼻腔を刺激してくる。

 ひとつだけ残されたスチールのデスク。

 床に散乱している日焼けした書類。

 大都会の片隅にぎゅうぎゅうに押し込まれて建っているビルの窓からは、月明かりも街の光も差し込まず、ただ隣のビルの壁があるだけだった。

「ここなら私とは縁もゆかりもないし、少しは時間を稼げると思う」

「あの、ありがとうございます」

「別に気にしないで」

 ぺこりと頭を下げる陽向に、星夏は苦笑した。

「私としては、鹿島葵さんとやらにすぐに引き渡してもいいのだけれど。恭平君があなたに会いたいらしいし」

 スチールデスクに腰かけて、彼女は煙草を咥えた。

「ちっ」

 気がついたら最後の一本だった。

 我慢すべきかどうかを数秒だけ悩んで、結局は火をつける。

 暗がりに浮かびあがる灯火が、まるで線香花火のようだった。

「私だってマンションに押しかけられて揉めるのは面倒だもの」

 桜井恭平の話によれば、星夏の名前と勤務先は鹿島葵にすでに把握されており、そこから彼女の自宅を割り出すことくらいはできるということだった。

 にわかには信じられないが。

 陽向が言うには世羅の筆頭分家である鹿島は、没落している世羅家にあって現代でもある程度の力を保っている唯一の勢力であるらしい。

 京都に本社がある、鹿島安全警備保障という日本でも有数の警備会社のオーナー家。

「鹿島家の役割は、世羅家の暴力装置でしたから。その名残です」

「やめてよ。私を現代伝奇系異能バトルに巻き込まないでくれるかしら」

「大丈夫ですよ。葵さんはともかく、鹿島の社員全員が吸血鬼というわけではないので。でも、警備会社としてのネットワークや、警察への影響力は侮れないんです。特に京都や西日本では。それでわたしは、こっちに家出してきたというのもあります」

 国内外の様々な勢力が複雑な暗闘を繰り広げるこの東京で、自由奔放な振る舞いが許されるほど、世羅も鹿島も強大ではない。

 どちらかと言えば、諸勢力を刺激して機嫌を損ねないように、慎重に動かなければならない。

「でも、名前から住所や関係先を洗い出すことくらいはできると思います」

 陽向の話が本当だとしたら、星夏の個人情報は洗いざらい抜き出されて、自宅以外にも彼女が立ち寄れそうな場所はすべて探されるだろう。

 そこには〈5T〉の事務所も含まれるだろうが、一階下の空きテナントにいるとは思わないはずだ。灯台下暗しとはよく言ったものである。

 桜井恭平には、この場所は伝えているが。

「うまくいくといいけれど」

 星夏は嘆息とともに紫煙を吐き出した。

 デスクに置き去りにされていたボールペンが目に入り、思わず手に取る。

 長い髪を器用にシニヨンにし、彼女はボールペンをぶっ刺した。

「戦闘モードですか?」

 陽向はそう言って、星夏の隣に並んだ。

 同じようにして、スチールデスクにちょこんと腰かける。

「なによ、その機能は?」

「ここで星夏さんが実は十代続くヴァンパイアハンターの家系で、真の力を解放したりするのかなと」

「生憎と十代続く温泉旅館の家系ではあるけれど、吸血鬼とは無縁だわ」

「ですよねー。言ってみただけです」

 陽向が小さく笑い、星夏は肩をすくめた。

 ポケット灰皿を取り出して、灰を落とす。

「そんなご都合主義な展開は、現実では起きないのよ」

「知ってますよ。だからわたしは、葵さんに連れ戻される」

「寂しそうに言ってもどうしようもないの」

 星夏はゆっくりと紫煙を吐き出し、ただ目の前の暗闇を見ていた。

 隣にいる少女には、視線を向けない。

 私はこんなにお人好しだったかしら、と星夏は思った。

 桜井恭平と一緒に仕事をしていたころですら、自分のことばかりだったというのに。

 少し年齢を重ねて、仕事に疲れて、丸くなったのだろうか。

 出会ったばかりの見知らぬ女子高生に同情してしまうくらいには。

「……」

 違うな、と頭を振る。

 煙草を咥えている口元が、自嘲で歪んだ。

「私も」

 星夏はぽつりと言った。

「私もいやだった。小京都なんて気取ってみても、所詮は小さな街で。そこに閉じこもって、実家を継ぐために誰かと結婚して、子どもを産んで、幸せなふりをして死んでいくのが、いやだった」

「星夏さん?」

 陽向が怪訝な顔で、こちらに視線を向けてくる。

 だが、星夏の言葉は誰に言ったわけでもないものだった。

 箱庭みたいなあの狭い街がいやで、勝手に東京のデザイン専門学校に願書を出して、高校を卒業した日に誰にも相談せずに新幹線に飛び乗った。

 翌日から、実家で働くことになっていたから。

 ああ、だからか。

 氷室星夏と世羅陽向は、少し似ているのかもしれない。

 そう思うと。

 陽向に対して、少しばかりお人好しになってしまうのもわからなくはなかった。

「なんでもないわ」

 星夏は澄ました顔でそれだけを言うと、短くなった煙草の火をポケット灰皿のなかで揉み消した。

 スマホで時刻を確認する。

 ビルに忍び込んでから、まだ一五分も経っていないことが信じられなかった。

「恭平君、こないわね」

「あの、星夏さん。桜井さんは――なんでわたしに会いたいんでしょうか」

「さあ。本人に聞いてみれば?」

「それはそうなんですけど。でも、だって、なんというかですね」

「まあ、エロいこと未遂のあとで、どんな顔をして会えばいいって感じよね」

「言い方が直接的すぎなので!」

「エッチなこと未遂」

「同じです!」

 陽向が両手で握った拳をぶんぶんと振って抗議してくるが、星夏はそれを無視した。

「彼はなんだかんだ善人だからね。きちんとお別れを言いたいんじゃないかしら。うやむやなまま会えなくなるよりは」

「むー……」

「どうして不満そうなのよ」

「いえ、不満というわけでは」

 そう言った陽向は、唇を尖らせて不満そうな顔だった。

「わたしとしては、『やっぱり陽向と離れたくない。俺の血を吸ってくれ』という展開を希望なんですが」

「たくましい妄想はベッドのなかでしてなさい。エロい女ね」

「エロいってなんですか! 星夏さんはすぐそういうこと言う」

「カレシが何年もいないアサラー女の性欲を舐めないでくれるかしら」

「ええ……? そっちなので?」

「ちょっと、ドン引きしないでよ」

 半眼になって自分を見てくる陽向に、星夏は嘆息混じりに言った。

「あと十年もすれば、あなたもわかるわよ」

「なんで星夏さんと同じ境遇になる前提なんですか」

「女の勘」

「そ、そんな迷信めいたもの信じないので」

「吸血鬼が言わないでよ」

 がらんとした暗がりの部屋のなかで、二人はどちらともなく笑った。

 休み時間に中身のない話で盛りあがっていた高校生のころを思い出し、星夏は内心で苦笑した。

 年齢を重ねて、いろいろなライフイベントを経て、あのころの友人たちの多くは星夏とは違う価値観のなかで生きている。友人のままではあったが、あのころみたいに他愛のない話で盛りあがるなんてことはもうない。

「本当にね――」

 星夏は消えるような声で独りごちた。


 ――私たち友達になれたかもしれないわね。


 胸中の言葉は声には出さない。

 以前にも思ったのと同様に、仮定の話をしても仕方がない。

 だが、陽向は胸の前で指を組むと、

「ありがとうございます、星夏さん」

 と言った。

 まるで心が読まれているようで、星夏はぎょっとして彼女を見た。

「あの、星夏さんがわたしのこと嫌ってはいないみたいなので。自分に向けられる好意だとか敵意だとか、普通の人より感覚的にわかるんです」

「……」

 星夏は少し呆れた顔で腕を組むと、小さく嘆息した。

 二人は同時に言った。


「「吸血鬼ですから」」


 そして、顔を見合わせて笑った。

 本当の友人のように。

 ひとしきり笑ってから、星夏は煙草の空箱を握り潰した。

「コンビニに煙草を買いにいってきてもいいかしら?」

「ちょっ、ダメですよ。出入りしてるの見られるかもしれないですし」

「ニコチンが切れて私が死ぬとしても?」

「死なないので」

「……」

「……」

「死ぬとしても?」

「死なないので」

 二人のそんな言い合いを遮ったのは、木製のドアが開く音だった。

 ぎりぎりという軋み音が、暗いオフィスに響く。

「……恭平君?」

 ぴたりと動きをとめて、星夏は眼鏡の奥の目を細めた。

「ああ、俺だよ」

 暗がりに見て取れる人影が答えてくる。

 その声は確かに桜井恭平のものだった。

 ゆっくりとオフィスに入ってくる。

 そして、彼の後ろにはもう一人。

 パンツスーツを隙なく着こなした、目つきの鋭い女が続いていた。

 それだけで、星夏は状況を察した。

 最初から桜井恭平がマークされていたのか、〈5T〉を家探しにきたところとかち合ったのか、それはわからないが。

「葵さん」

 その女を見て、陽向が小さく言った。

 女――鹿島葵は少しだけほっとした表情を見せた。

「探しましたよ、陽向様」

 その声は、星夏が想像していたよりは温度があった。

「そろそろ世羅の家にお戻りください。御当主はじめ、みなが心配しています」

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