36.陽向ちゃんが奇声を発した

「どうですか、星夏さん。似合ってますか?」

「おー」

 咥え煙草をぴこぴこ揺らして、氷室星夏はおざなりに拍手をした。

 目の前には世羅陽向が、「えっへん」という得意げな表情を浮かべて立っている。

 控え目で清楚なデザインのワンピースが、よく似合っていた。

「似合っているわ。可愛い」

「気持ちが全然こもってないので」

「クローゼットに封印されていた服も喜んでいると思うわ」

「気持ちに寄り添うのはそっちじゃないです」

 陽向がわざとらしく地団駄を踏んだ。

 控え目に言ってむちゃくちゃ可愛い、と星夏は思った。

 だが、悔しいので口には出さない。

「でも、わたしがもらってもいいんですか?」

「いいのよ。どうせ私は着ないし」

「えへ」

 陽向は嬉しそうにはにかんで、くるりと回った。

 ワンピースの裾がふわりと翻り、まるでアイドルのミュージックビデオでも見ている気分になる。

 自分とのあまりにもの違いに、星夏は内心で嘆息した。

 数年前。

 彼女がアートディレクターとして少しだけ注目され始めたころ。

 実力とは別にその容姿でも度々話題になった。

 美人すぎるなんとか、みたいな低俗な企画が世のなかでまかりとおっていた。

 そして、星夏は名前を売るために何度かその低俗な企画に協力したりもした。

 心底いやだったが。

 なにかの雑誌の撮影ではメイクとスタイリストがついて、彼女が普段は着ないような服が何着も用意されていた。

 ぎこちなく笑って、彼女は何百枚も写真を撮られた。

 その撮影の終わりに、ひょっとしたら自分もいつかこんな服を着ることもあるのかもな、というバカみたいな考えで買い取ったのだ。

 結局、そんな機会は一度もなかった。

 美人すぎるアートディレクターなんて肩書きの人間には、本物の仕事は求められない。

 魂を削って、一〇〇点の仕事から、さらに一点を積みあげていくストイックさは必要ない。

 クライアントがオーケーを出しても、品質に妥協しないエゴは必要ない。

 氷室星夏は、みんなが求める美人すぎるアートディレクターにはなれなかった。

 かといって、誰もが認める本物にもなれなかった。

 何者にも、なれなかった。

「星夏さん?」

 名前を呼ばれて、星夏は我に返った。

「なんでもないわ。そもそも恭平君の服を勝手に着ているのもどうかと思うけれど」

「だって、わたしは学校の制服しかなかったですし。桜井さんはお金がないから、服を買ってくれないですし」

「そういうことは期待してはダメよ。腕を引っ張って店に連れていかないと。連れていけば、お金がなくても買ってくれるから」

「なるほどですね」

「真剣に聞かないでくれるかしら」

 星夏は嘆息混じりに、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。

 これではまるで、昔つき合っていた男の扱い方をアドバイスしている人がいい元カノだ。

「どうせあなたは、明日には警察に保護してもらうわけだし」

「絶対いやです」

「いやとかではないのよ。家出少女は保護される。これは日本の常識」

「絶対いやです」

「吸血鬼の力を使って逃げてもいいけれど、いく当てもないでしょう。それとも恭平君のところに戻れる?」

「それは……」

 陽向は口ごもった。

 あんなことをしてしまって、戻れるわけがなかった。

 次に桜井恭平と顔を合わせたとき、なにを言えばいいのか陽向には検討もつかない。

「ほら。あなたの選択肢はもう家に戻るしかないのよ?」

「ぐぬぬー」

 反論できない悔しさに、陽向は目をバッテンにして両腕をぶんぶん振った。

「優しさ。星夏さんの言葉には優しさがないと思います」

「自称・吸血鬼のアホの子な女子高生に、一週間分の食糧を提供して、服もあげているのに。これ以上、どう優しくすればいいわけ」

「アホの子ってなんなので!」

「ごめんなさい。心の声がもれ出てしまったみたい」

「心に厳重な鍵をかけてください。チェーンカッターでも切断できない南京錠で施錠してください」

「それはもう、心を閉ざしていると思うけれど」

 星夏はわざとらしく肩をすくめた。

 新しい煙草を咥える。

「星夏さん、煙草吸いすぎじゃないです?」

「……母親や妹みたいなこと言わないでくれるかしら」

「だって、ちょっと心配になるくらい吸ってるので」

「チェーンスモーカーなの。吸い出すと、とまらなくなるのよ。煙草がどれだけ値上がりしようと、やめない自信があるわ」

「この世で一番必要のない自信のひとつだと思います」

「それは否定できないけれど。誰も私をとめることはできないの」

「ああ……!」

 星夏は容赦なく煙草に火をつけた。

 世羅陽向のころころ変わる表情は見ていて飽きないな、と星夏は思った。

 そういえば、金沢にいる妹も同じようなタイプだ。

 こういう愛嬌を、彼女はもっていない。

 星夏の視線に気づいたのか、陽向が半眼で言ってくる。

「なんです?」

「飽きない顔だと思って」

「どういう意味なので……!?」

「え? そのままの意味だけれど」

「なんか、こう、微妙に喜べないんですが?」

「それは知らないわよ」

 星夏は咥え煙草のまま、声を押し殺して笑った。

 灰皿に灰を落とすのと、ローテーブルに置いていたスマホが震えたのはほとんど同時だった。

 珍しく着信を知らせている。

「?」

 手に取って画面を確認すると、桜井恭平からだった。

「恭平君から電話だ」

 陽向に画面を見せてから、電話に出る。

「はい。氷室です」

 そう言ってから、少し他人行儀だなと思う。

 こういうところに、愛嬌が必要に違いない。

 電話の向こうで、桜井恭平はずいぶんと慌てているようだった。

「え? 私の住所は教えられるけれど。鹿島葵? それは誰よ?」

「ひょっ!」

 鹿島葵という名前を聞いて、陽向が奇妙な声をもらした。

 星夏は思わず彼女のほうを見やり、怪訝な表情になった。

「うんそう。陽向ちゃんが奇声を発した」

 電話の向こうに淡々と状況を報告し、星夏は半分くらいになった煙草を灰皿に押しつけた。

 なんだか面倒なことになりそうだな、と彼女は思った。

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